To the future ―回転木馬―

「To the future 」 − 回転木馬 − プロローグ


「ママ・・ママ、ママ・・・・」
「フランソア、パパがいるよ」
優しい低い声と温かい手が部屋全体を包み込んだ。
「パパ、ママは」
「ママはまだお仕事だよ、パパが眠るまでここにいるよ」

穏やかな寝息が聞こえたと同じ時、玄関の防犯装置が解除された音が聞こえた。
彼が2階の踊り場から玄関ホールを見下ろすと、夜の静けさに響くヒールの足音を忍ばせながら急ぎ足で階段を上がろうとしているジェニファーがいた。

「遅くなってしまってごめんなさいね、フランソアは・・・」
「もう眠ったよ、それよりジェニファー、かなり疲れているようだけど」
「ええ、そうよチュンソン」
「バスを使っておいで、何か飲み物を用意しておくから」
ジェニファーはチュンソンの目に影があることに気づいた。
いつも何か楽しいことをみつけ輝きを放っているチュンソンにしては珍しいことだった。
不吉な予感が胸をよぎりフランソアのベットに屈み込んでから、ジェニファーは慌ただしくバスを使った。

髪を拭きながら居間に入ると、ワイングラスをぼんやり見つめているチュンソンがいた。
「チュンソン、遅くなってごめんなさいね。怒ってるの」
「ジェニファー、ごめん、君を怒ってるんじゃないんだよ。さっきフランソアを見ていて思い出したことがあったんだ」
「悲しいことなの、そんな目をしてるけど」
「君は何もかもお見通しだな、そうだよ悲しいことだよ、いや僕じゃない父のことを考えていたんだ」
「お父様のこと、韓国にいらっしゃる」
「ああ、僕の父カン ジュンサンのことだよ」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 1


「ママ、ママ・・・・・ママ・・」

暗闇に泣きじゃくる子どもの声が微かに響いた。
冷たい空気が部屋を包んでいる。

「チュンサンぼっちゃま、スファはここにいますよ」
優しい温かな声が、腕が身体を覆った。
「スファ、ママはどこ」
「・・・・出掛けられましたよ」
「ママ、ママ・・・・」
スファの手がチュンサンの背中を軽く叩きながら、低い声で子守歌を歌った。
「・・ママ・・・・」

頬を伝わる涙が乾かないうちに穏やかな寝息が聞こえた。
スファがチュンサンの涙を拭うと呟いた。

「チュンサンさま、お母様は2カ月も留守をされるのですよ」
チュンサンの顔を見下ろして、スファは溜息とも付かぬ吐息をもらすと首を振りながら
部屋のドアをそっと閉めた。


===============

「お母さん、お願いします。このチャンスを逃したら私は世界に出ることはもう叶わないかも知れないんです」
「そんな恥曝しなことが出来ますか」
「ほんの2カ月でいいんです、チュンサンを預かってもらえませんか」
「父親のいない子をこのカン家で引き取ることは出来ません」
「引き取ってといっているわけではないのです。ほんの2カ月だけです」
「この話は聞かなかったことにします。お父様には伝えませんよ」
「・・・お母さん・・・・わかりました。もうお頼みはしません」

===============


「ねえ、スファ。ママはいつ帰ってくるの」
「・・・・チュンサンぼっちゃまがお利口さんにしていたらね」
チュンサンの目が喜びで輝いていた。
「スファ、僕お利口さんにするよ。幼稚園も行くよ。ピアノだって練習するんだ」

うっかり希望を与えてしまったことにスファは戸惑いを覚えた。
ーだってまだ5歳の子どもよ、なんて言ったらいいのー

「スファ、牛乳も飲むよ。にんじんも食べるよ、そしたらママ、早く帰ってくるよね」
誇らしげにおしゃべりを続けるチュンサンを見ながら、スファはチュンサンを引き受けたことを悔やみだしていた。
「チュンサンぼっちゃま、幼稚園に遅れますよ」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 2


「ママ、ママ・・・・」

「フランソア、おはよう。ぐっすり眠れたの」
フランソアは見つめているジェニファーの首を両手でしっかり抱きしめた。

「あれ、パパにはおはようはないのフランソア」
チュンソンの優しい声が聞こえた。
「パパ!」
ベットから跳ね起きるとチュンソンの胸に飛び込んだ。
「ねえ、どうしたの、どうして私が起きるのがわかったの」

チュンソンとジェニファーが顔を見合わせて笑った。
「ずっと見てたんだよ、可愛いお姫様の寝顔をね」


「ねえ、ママきょう幼稚園にあの白いブラウス着てもいいでしょ」
「あら、あれは特別なときだけじゃなかったの」
「きょうは特別なの」
「どうして、教えて」
「あのね・・・・パパ、レディが着替えるのよ」

フランソアの光を受けて変化する茶色い瞳、ジェニファーと同じ瞳をチュンソンに向けた。
肩に流れる黒い髪はチュンソンの母ユジンのようにオリエンタルの美しさを描いている。

チュンソンが大きく肩を窄めた。
「じゃあ、僕はオムレツを作ってようか」
フランソアの目が輝いた。
「パパ、ケチャップをいっぱいね」

チュンソンの目がフランソアの手にしているブラウスを見ながら
「オムレツを食べてから着替えた方がいいんじゃないか、ケチャップが付いちゃうぞ」
「わたし、赤ちゃんじゃないもん。こぼしたりしないわ」
チュンソンが軽やかな笑い声を立てて階段を下りていった。

白いブラウスを見つめていたフランソアが小声で
「ママ、パパのオムレツを食べてから着替えてもいい」
「そうね、ママもその意見に賛成よ」

「パパ、ケチャップで絵を描くのはわたしにまかせて!」
階段を転げ落ちるかのように、フランソアは駆けていった。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 3


「チュンサン、風邪ひいてない。ちゃんとスファのいうことを聞いてるの」
「ママ、僕お利口にしてるよ。帰ってきて」
「・・・・チュンサン・・・スファと変わって」
「ママ・・・・・」

ーママ、僕のこと嫌いなんだー

「チュンサン、お前ママに捨てられたんだって。うちのママがいってたぞ」
「うちのママもいってた」
砂場でトンネルを掘ってたチュンサンの手からシャベルが滑り落ちた。

「スファ、僕捨てられたの・・・」
幼稚園の帰り道、ポツンとチュンサンが言った。
「誰がそんなことを言ったのです。奥様はピアニストとして外国に行ってるんですよ」
「そうだよね、そうだよね」
スファの手を強く握って、チュンサンの声が明るくなった。
「さあ、チュンサンぼっちゃま、お好きなものを作ってあげますよ、何がいいですか」
「僕、スファの作るものなんでも好きだよ」
「でも、きょうは一番好きなものにしましょうね」
「じゃね、アイスクリーム」
「まあ・・・」
スファがくすくす笑った。スファの笑い声に誘われるようにチュンサンも微笑んだ。



何故だろう、お前に知っていてもらいたかったんだ。
ユソンでもミンソンでもビョルでもなくチュンソンお前にだよ。

お母さんは知ってるの

大体はね、でもそんなに詳しく話してはいないんだ。
ユジンならわかってくれる、でも彼女の心を悲しくさせたくない。
だからといってお前に話すのもおかしな話だが。

いや僕も聞いておきたかったんです。

何故お前なのか

何故僕なのですか

チュンソン、お前がきっとあの時までのカン ジュンサンに似ているからなのかな

あの時

そうあの時僕



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「To the future 」 − 回転木馬 − 4


僕の心を父チュンサンは知っていた
あの幾夜にも渡ったあの物語
あれは確かにチュンサンのお話


「スファ、お釣りが違うよ」
「えっ!」店先で渡された手のひらのお金をスファが数える。
「おじさん、足りないわ」
「なんだって、間違うわけがない」
「ほら、見てよ450ウオンなければいけないのよ、430ウオンじゃない」
「・・・ほらよ・・なんてガキだ」

「チュンサンぼっちゃますごいですね、よくお分かりになりましたね」
「簡単さ、僕おもしろいんだよ。数字を足したりええっと・・・」
「引いたりですか」
「そう、足したり引いたりがね」

スファはチュンサンが他の子と何処か違うことに気付いていた。
幼い子どもなのに感情を押し隠している姿
なにか新しいことをしようとするとき、慎重に手を伸ばし、確実に身につけいく賢さそして観察力の鋭さを。
そんなチュンサンを見るたび愛おしく、チュンサンを置いて長く家を空けているミヒを恨めしくさえ思えた。


「スファ、きょうママが帰ってくるんだよね」
「ええ、もしかしたらもうお家にいらっしゃるかもしれませんよ」

チュンサンは家が見えるとスファの手を振り払い駆けだした。
「ママ、ママ・・・」
「チュンサン・・・・大きな声を出さないで頭が痛いのよ」
「・・・ママ・・」
「スファ、ひと休みしたいからチュンサンを静かにさせて」
「・・・奥様・・」


「もう少し食べなくてはだめですよチュンサンぼっちゃま」
「もういい、ごちそうさま」
チュンサンはミヒの部屋に向けた目をスファに戻した。
「スファ・・・・・・」
チュンサンの目から涙がこぼれた。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 5


「パパ、いつもとは違う人がいるわ」
フランソアが立ち止まった。
「こんにちわ お嬢さん、似顔絵はいかがかな」
その男は声を掛けた。
フランソアはチュンソンに目を走らせた。
「いいよ、ゆっくり描いてもらったらいい」

フランソアが描いてもらっている間、チュンソンは並べられた男の絵を丁寧に見ていた。
そのうちの何枚かを食い入るように見つめていた。

「気に入ってもらえましたか」
男はチュンソンの視線を捉えた。
「描き終わったのかい、フランソアどうだい気に入ったかな」
チュンソンはお金を払いながら、フランソアが見つめる似顔絵に目を向けた。
「・・・・・・・」
フランソアもチュンソンも無言でその似顔絵に見入った。

「どうしてこんなふうに捉えたんだ、普通、似顔絵書きは綺麗にもしくは可愛く、
あるいは抽象的に、君の見本で置かれている絵はそんなふうに見えるんだが」
「いつもはね・・・・」
その男の切羽詰まったような目の中からチュンソンは答えをみつけた。
「・・・・カン ジュンソンだと知っていてだね」
顔を赤くして男は俯いた。

チュンソンは名刺を手渡しながら
「自信作を2・3点持って、事務所に来てくれ。名前は」
「サミエル バーンです」
「じゃあ、サミエル、できるだけ早くね」


「パパ、フランソアはこんな顔をしてるの。いろんな人に描いてもらってるけど・・・・
こんなの初めて・・・」
「どうかな、彼はそう思ったんじゃないのかな。この絵はパパが貰ってもいいかな」
「・・うん」


「ジェニファー、君はどう見る」
「この表情のフランソアのこと、それともこの描き手の腕前のこと」
「・・・・画家としての才能・・・・」
「あなたが今まで世に出してきた人達とは違うわ、でも成功するかどうかは賭ね」
「多分ね・・・・・大きな賭だろうな、やってみるだけの・・・」

チュンソンはその夜、フランソアの似顔絵から目を離さなかった。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 6


「人生が公平か不公平かなんて考えたことないだろう」
父チュンサンが呟くように言った。
「お父さんはそんなふうに考えていたの」
「幼いとき漠然とね。それが何の意味なのかわからなかったが」


「スファ、僕はどうしてカンっていうの」
「・・・・カン家のぼっちゃまですから」
「ママと同じ名字はいけないんだよ、だから僕と遊べないって」
「誰がそんなことを・・・・」
「いいんだ、スファ。僕、学校が楽しいから」

ミヒがピアニストとして世界の舞台に登場するようになって、5年の歳月が流れていた。
そのほとんどが旅から旅の日々。
彼女が自分でスケジュールを調節することはまだかなわなかった。
名前はコンクール優勝から知れ渡ってはいたが、カン家から離れ
強力なバックボーンを失った彼女は、単なるアジア人のピアニストにすぎなかった。

彼女自身[チュンサンを育てるため、子どものため]
その思いは「ピアニスト カン ミヒ」の成功と名声がなければ
決して手に入れることのできないものと信じていた。
ましてや、気軽に飛行機で世界を行き来できる時代でもなかった。

ミヒの母親として溢れんばかりの愛情を、彼女はどう表現したらよいのかわからない戸惑いの中にいた。
彼女自身、子どもに掛ける温かい言葉、抱擁を知らず育っていたのだった。
赤ん坊のときのチュンサンは抱きしめることができたが、
少年になった彼をどう触っていいのかさえも知らずにいた。
チュンサンの寂しさはミヒの悲しさでもあった。


「ママ、今度はいつまで・・・・・・・」
「チュンサン・・・・・勉強はしてるの、ピアノは弾いてる」
「うん・・・」
「お返事はハイでしょ、チュンサン」
「・・・・ハイ・・・・・ママ、僕のパパはどこにいるの・・・・」
「・・・・・・・・・チュンサン・・」



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「To the future 」 − 回転木馬 − 7


ドアがノックされた。
「サミエル バーンさんがお見えです」
画廊に流れる音楽が微か漏れてきたと同時にドアが閉まった。

「よく尋ねてきてくれたね」
チュンソンが声を掛けた。
青白い顔をして立っていたサミエルがホッと肩で息をした。
ここを訪れる若者は皆多かれ少なかれ同じような気分になるらしい。

ー何故自分がここに今いるのだろうかー
ー成功の鍵をこのオーナーが握っているのかー
ー選ばれた者なのだろうかー
ーやっと、認められたのかー

サミエルの思惑を遮るようにチュンソンが言った。
「さあサミエル、君の自信作を見せてくれ」
他の若者と何の変わりもなくサミエルの顔が興奮を抑えきれず赤くなっていく。
「・・・はい」




「チュンソン、彼はどうしたの」
「彼、サミエルのことか・・・急ぎすぎたのかもしれないな」
ジェニファーの手がチュンソンの手を包んだ
「いつかわかってくれるときが来るわ」

サミエルが持ち込んだ作品は見る者をどこか不安に陥らせるようなものだった。
あの時、フランソアを描いた内面をも透視したかのような表現にはほど遠いものがあった。

あれは目の錯覚だったのだろうか。

落胆をあざやかな笑顔で隠し、持ち込んだ3枚の絵を買い取った。
「僕がいなくとも構わない、毎月一回画廊に顔を見せてくれないか。また気に入った絵が描けたら僕に見せてくれ」
チュンソンは数多くの若者を影で支えていた。
そのほとんどは彼の期待に添うことはなかったが、何人かは新進の画家として世界に羽ばたいていった。

チュンソンの鑑定の目は素晴らしかった。
彼の華やかな外観に惑わされ、正当に評価しなかった昔ながらの鑑定士達も認めざえなかった。
そんな確実な評価を得られた頃、各企業は他部門へ事業展開するという時流がやってきた、セウングループもその例外ではなかった。
そして、チュンソンもセウングループの一翼を担うことになった。

しかしチュンソンが決してグループに譲らないものがあった。
それは若者たちへの金銭的支援だった。
その資金はチュンソンの言う「アルバイト」で賄われていることを知るものは少なかった。
チェリンの誘いで始めたモデルの仕事は、チュンソンが好む好まざる以前に確実なオファを受けていた。
彼のモデルのマネージメントはあれ以来、ハイディが一手に引き受けていた。
彼女はチュンソンの意向を理解し、セウングループを刺激しないように注意をしながら、
彼のもう一つの部分を支えていた。


「チュンソン、来週からうちの雑誌の撮影に入るはずよね」
「ああ、ハイディから連絡があったよ」
「じゃあ来週、ハイディの都合のいい時に食事をしましょう」
「そうだな、いつも無理ばかり言ってることだし、君は時間がとれるのかい」
「ええ、あなたが微笑めば誰もが首を縦に振るわ・・」
ジェニファーが悪戯っぽく笑った。
チュンソンの軽やかな笑い声が響いた。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 8


寂しさは当たり前だったからこれが寂しさなんだとは思ってもいなかった。
でも、悲しさはほんの些細なことで感じるんだ。
自分がその人の前で半分くらい消えてしまったように、
そこにいるはずの自分がみんなには見えていないんじゃないのかと。
チュンサンの瞳は遠い世界を凝視している。

そんなに大変なことだったの

あの時代はね。




「チュンサンわたしのお誕生会に来てくれる」
「行ってもいいの」
「どうして、だってお友達じゃない、ママがお友達を呼びなさいって」


ーおともだち・・お友達・・だってー


「スファ、スファ・・あのね・・・」
「お帰りなさい、何かいいことがあったのですか」
「スジンがお誕生会に呼んでくれたんだ」
「あら、ほんとですか。だったらプレゼントを買いに行かなくてはね」
「スジンはね、いつも犬の絵を描くんだよ。僕、犬の貯金箱がいいと思うな」


「チュンサンさま11時の招待じゃありませんか。遅れますよ」
「・・・・・・・」
「チュンサンさま・・・」
「スファ、僕、頭が痛いから行かないよ」
「・・・・・・・」


ーママがね、チュンサンを呼んじゃいけないってー

リボンのかかった箱がチュンサンの手からベットの下に落ちた。
陶器の割れる音がした。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 9


「チュンソン、髪を切ってもらえるかしら」
「・・・・・・」
「少しだけよ」
ハイディが苦笑した。
「彼のイメージに合わないのよ、チュンソン!仕事なのよ」
「わかってるよハイディ、少し拗ねてみただけじゃないか」
ハイディはちょっと肩を竦め、軽くチュンソンを睨んでジェニファーに視線を移した。
「ジェニファー、笑ってないで何とか言ったら」
「あらハイディ、彼に言えるのはあなただけよ」

チュンソンはフォークを握っているハイディの手を取り、
「仰せのとおりに」と、軽くキスをした。
「もう・・そうやって誤魔化すんだから・・・」



自らの筆を捨て画商としての地位を確立するため、チュンソンは努力を惜しまなかった。
チェリンから見出されたモデルの才能は、何の苦労もなく手に入れたかのように見えたが、
必要とあらば、身体に負担を懸けることもモデルとしてのプライドがやってのけた。
そこにはハイディの的確なアドバイスとアランの後押しがあった。


普段は長めの黒い髪を軽く束ね、シックな服もラフに着こなしたチュンソン。
そんな彼を見るために画廊を訪れる人さえもいる。
パリコレの時期になると、大勢のデザイナーから声が掛かる。
有名デザイナーのトップモデルとしての活躍はハイディの選択に任せ、
その合間をぬってチュンソンが「これは」と感じてた無名のデザイナーのステージに登場しては、世間を沸かせていた。



「ねえパパってほんとに格好いいのね」
BGMにかき消されそうな声を耳元でささやいた。
「ああ、そうだね。ますますよくなってるな」
「アランおじちゃまもそう思うの、フランもそう思うわ」
「もっとそう思ってる人があそこにいるぞ」
「うん、チェリンおばちゃまね」
ステージのチュンソンを見守るチェリンがそこにいた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 10


「母さんスファはどこ」
「しばらくお休みを取っていなかったから実家に帰ったわ」
「僕に何も言わず・・・母さんが無理矢理帰したんだろ」
チュンサンの刺すような視線を避けるようにミヒが無言で立ち上がった。
「・・・・母さん、今度はいつまでいるの」
チュンサンの声がミヒの背中に追い被さった。
後ろ手でドアを閉め、ミヒの肩が震えた。
「・・・・チュンサン・・チュンサン・・・・・」
きつく結んだ唇から言葉にならない名前を僅かに漏らし呑み込んだ。
「あなたには感謝しても・・・・・」
「奥様・・どうかそんなことをおっしゃらないでください」
「でも、チュンサンにはどう話したらいいのかしら」
「奥様、チュンサンさまはもう大人ですよ」

ミヒが大きく頭を振った。
チュンサンの心がまた離れていくことは判りきっていた。

「スファ、幸せになるのよ」
「はい、奥様・・・」
「でも、子供が二人もいる人に後妻で行くなんて・・・ごめんなさいねスファ。
 わたしのせいね」
「いいえ10年もチュンサンさまといられたんです、楽しかったですよ。
 こんなわたしには勿体ない話ですから」
「スファありがとう」



「漠然と思っていた人生の不公平をあの時、確信したんだ」
父チュンサンが言った。
「あの日から花嫁衣装に身を包んだきれいなスファを、母と呼べる僕と同じ年くらいの
 子供がなんで僕じゃないんだって」
微かな笑みの先にあの時のスファを見るようにチュンサンは目を細めた。
「・・・きれいだった・・・」



スファがいなくなった後、住み込みのお手伝いの人を頼もうとしたミヒであったが、
「もう、高校生になるのだから」とチュンサンに押し切られ、
チュンサンのいない時間に通いのお手伝いの人に来てもらうことにした。
ほとんど一人で暮らすチュンサンに心を残しながら、ミヒはさらなる世界へ羽ばたき出していた。

チュンサンとミヒ
互いに堅く閉め切ってしまったものを開ける方法もわからないまま、月日は流れていった。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 11


さすがのチュンソンも疲れていた。
パリコレの間、体調管理と時間管理そして、この期間にパリに訪れる人たちとの商談。
最後の打ち上げパーティが終わった時には、ただ泥のように眠りたかった。

「・・・・パパ・・パパ・・・」
小さい手がチュンソンの顔を触っていく。
その指をチュンソンの唇が捕まえてくわえた。
「パッ・・パ、パパ起きてたの」
「フランに起こされたんだよ」
「ごめんなさい、ママにパパを起こしてはダメっていわれてたの」
「じゃあ、ママには内緒だな」
フランソアの体を抱き上げ、自分の胸に座らた。
「フラン、おはよう。今日は幼稚園はお休みかな」
「パパもう、こんにちわだわ、それに今日は行きたくってもお休みなのよ」



静けさを求めてフランソアとブーローニュの森に辿り着く。
この10日間の喧噪を忘れさせるまっすぐのびた松林。
小さな子供用の汽車に乗るフランソアに微笑みながら、
本来の自分の仕事である美術品に懐かしさを感じていた。
思わず独り言を呟いた。
「頭を空っぽにするにはギメ美術館だな」
あの世界に戻るときめきをチュンソンは忘れてはいなかった。



「フラン、ママを迎えに行こう、今日はゆっくり食事ができるぞ」
「ほんとだ」
「何が本当なんだいフラン」
「ミセスパーカーが言ってたの、今日はきっと一緒に食事ができますよって。
 ずっとミセスパーカーがキッチンに入ってたから、パパのお部屋に行けたのよ」
「じゃあ今日はごちそうがいっぱいなんだな」

フランソアがクスクス笑った。
「やっぱりね、パパはショーが終わると飢えたライオンになるって」
「ガァオー、食べちゃうぞフラン」

フランソアを抱き上げると高々と放りあげた。
青空にフランソアの笑い声が吸い込まれていった。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 12


「お帰りなさいませ」
「キムさん、今日は遅くまでいたんですね」
「ええ、チュンサンさま・・・これを」
キムの差し出した写真にはミヒが男の人と写っていた。
「これは・・・・」

ミヒの書斎で本の埃を払っていたとき、本の間から落ちてきたものであった。
「申し訳ありません、どの本なのかわからないのです」
写真を凝視するチュンサン
「いいですよ、僕があとで母に返しておきます」


写真を手にどれくらい座っていたのだろうか、気づくと部屋の中は真っ暗になっていた。
焼けこげた白黒写真、頭の中でリフィレインする声
「誰なの?僕の父さんは」


「息子の学校の件もあるので、この家を処分するのは・・・そうね・・・・」
「・・・母さん、すぐにでもいいですよ。 アメリカに行く気持ちになるまで春川の学校に変わります」
「春川のがっこう・・・・」
「ええ、手続きはもう頼んであります。母は忙しいのでと言ったらすぐにやってくれました」
「・・・・チュンサンわかったわ。でもすぐに行くのよアメリカに」
「・・・・・・・」


あの時、あの季節、あの空・・・・あの星
僕を受け入れてくれた・・・・僕の友達
孤独に慣れた僕に手を差し伸べてくれたユジン

決して壊れない贈り物
僕の心と笑い声を入れたカセットテープ
ユジン、君に届くだろうか


ポケットに手を入れ暖かいものに触れた
ー好きな花はー ー白いバラー
ー好きな動物はー ーひとー
ー大晦日に   そしたら教えてあげるー
ピンクのミトンを握りしめる


激しい警笛、眩しいライト、白い閃光
驚きの顔と立ちつくすチュンサン


あの日を境に僕は彼女を影の世界に送り込んだ。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 13


「受付にサミエル バーンがお見えです」
その名前を聞いたとたんチュンソンは、オフィスの椅子に深く座り直した。
オズオズしたノックが響き、戸口にサミエルが現れた。

チュンソンはドアから漏れたBGMが耳をかすめたとき
ーやはりカンミヒのショパンが1番好きだなー
ドアが閉められ音が消えた。

チュンソンはすべてのことを頭から追い出し、緊張して青い顔をしているサミエルに目を走らせた。
「ここ数カ月来なかったようだね」
「・・・・」
「どこかにスケッチ旅行にでも行ってたのか」
「・・・・」
「サミエル、怒ってるんじゃないんだ。君が月に1度ここに来るのも来ないのも自由なんだ。ただ・・・」

チュンソンの話を遮るかのようにサミエルは口を開いた。

「あの時はあなたに認めてもらいたい一心でした。その後何カ月か、生活に必要なお金を
 ここを訪れるだけで保証されていることに心の安定を得ました。
 でもそれから何を書いてもあなたの期待に応えることができないんじゃないかと
 不安になったのです」
「・・・・・」

言葉を切ってチュンソンをみつめるサミエルに、無言で続けるように催促した。

サミエルは押しつぶされそうな不安から故郷のオーストラリア逃げた。
ただ数週間広い大地を眺めているうち、パリのごみごみしさが懐かしくなり、
絵筆を捨てる決心も付かない。
友達に誘われてNPOに参加してある国の学校を作る作業を手伝った。
そこでの美しいまでの景色に画きたい衝動を抑えることのできない自分に気づいた。

「自分の技法が確立できたという事かな」
大きく頷くサミエル

「ここに持ってきてないようだけど、僕に見せてもらえるのかな」
「追い返されるかと思って・・・受付に置いてあります」
「じゃぁ・・先に受付で今まで受け取っていない小切手を貰ってから、絵を運び込んでくれ」
「・・・受け取れません」
「君が来なくとも毎月小切手は受付に預けていたんだ、君が受け取らないと僕のスタッフが困るんだ」
「・・・・感謝してます」



サミエルにとって永遠と思われるほどの静寂だった。
「・・・・サミエル・・」チュンソンがかすれた声を上げた。
「サミエル、君に毎月の小切手を切るのはさっきのでおしまいだ」
「・・・・・」サミエルの顔がまた青ざめた。
チュンソンは軽く咳払いをすると、あの人を包みこむ笑顔を見せ、
「サミエル バーン画伯、君の絵を一手に引き受けさせてもらえないか。すぐに契約書を作るよ」


画廊とオフィスのドアが開き、そして閉められた。
ーそうだよな、子守歌に聞いてたもんなー



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 14


「彼の生命力に賭けるだけです。このまま眠り続けるのか、意識を取り戻すのか、
 呼びかけてあげてください」

事故から4週間、ほとんど助からないと宣告されたが、奇跡的にチュンサンは自発呼吸ができるまで回復していた。

事故の翌日にミヒは学校に状況を説明のため電話を入れていた。
その電話口でミヒは
「チュンサンは亡くなりました」
なぜそんなことを言ってしまったのか、今考えても自分を理解できないミヒであったが、
ただ一つわかっていたのは、これでチュンサンが自分だけのものになるということだった。


「先生、どうしてもスケジュールを動かすことはできません」


「スファ、私ですカン ミヒです。お願いがあるの・・・・」

青ざめた顔で、両手を関節が白くなるほど握りしめベットを見下ろしていた。
「何て事・・・・こんなお姿になってるなんて・・
 どうしてもっと早く教えてくださらなかったのですか」
「スファあなたに迷惑を掛けるかと思って・・・」
「教えていただけなかったことが寂しいです、奥様」


翌日から病院へ詰めるスファがいた。
「スファ、家のことはいいの」
「はい奥様、主人はわかってくれましたし、家のことは今まで通りやれますから」
「・・・スファ、ありがとう・・・」


「チュンサンさまスファの声が聞こえますか。お寝坊はいけませんよ」
「坊ちゃま、身体を拭きますよ・・・・また、この指でピアノを聞かせてくださいね」
「チュンサンさま、春になりますよ。お花がいっぱい咲きますよ、どこへ参りましょうか」
「チュンサンさま、チュンサンさま・・・・チュンサン坊ちゃま・・・・」


幼いあの頃お昼寝から覚めたときのように、足が胸の方に引き上げられ
微かに「う〜ん」という声が出た。
「・・・・チュンサンさま・・わかりますか・・・・」
「・・・・・・」
幼子の瞳のように何の翳りもない眼差しがスファに向けられた。
「・・・・・・だ・・・れ?」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 15


サミエル バーンのデビュー展が開催された。
緻密な計算に展示された絵は新鋭気鋭の芸術家にスポットライトを大きく当てた。
絵はドウレローを連想させたが、サミエルの大陸的な大らかさがドウレローとは違う
ものを描き出していた。

「飲み物はいかがですか」
「あら、チュンソン、オーナー自らギャルソンなの」
「デザイナーには特別ですよ、はいチェリンおばさん」
シャンパングラスを差し出した。
「チュンソンひとこと余計よ」軽く睨みつけると、チュンソンに微笑んだ。
「何か気に入ったものはございましたか」
チェリンのウエストに手を置いてエスコートしながらチュンソンはサミエルを紹介した。
「サミエル、オ チェリン先生です」
「あのオートクチュールの・・・・・感激です・・・」

チュンソンはさりげなくチェリンのそばを離れると、招待客の間を華麗に動き回っていた。

「チュンソン、お願いがあるんだが・・・」
アランがチュンソンの耳元に何ごとかささやいた。
チュンソンの顔がこんなに楽しいことはないという笑顔を浮かべた。
そのそばにいた人までが思わず微笑みたくなるような笑顔だった。
「・・・・任せて、アラン」チュンソンはウインクをすると素早くどこかへ消えた。

VIP招待客が帰る頃、ほとんどの作品に売約済みのステッカーが貼られていた。

チェリンが足を止め落胆のため息をついた。
あの時すぐに交渉しなかったことが悔やまれた。

サミエルのデビューは成功裏に終わった。



数日後、チェリンからせき込むように電話が来た。
「チュンソン、どうしてわかったの・・・なぜ・・・」
「僕じゃありませんよチェリン。アランからのプレゼントですよ」
「・・・まぁ・・・アラン・・あなた・・・」
電話口を苦笑しながら見つめるチュンソン。

その電話の向こうにはアランがチェリンの肩に手を回し、包みからほどかれた絵に見入っていた。
「アランありがとう」
「気に入ったかな」
「ええ、ほしかったの」

そこには静かな海に太陽が沈もうとしている赤を基調とした風景画があった。

「そう、私の人生のよう・・・・」チェリンが呟いた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 16


「今のチュンサンになら、父親も楽しい人生も与えることができるの」
「でも、チュンサンさまはチュンサンさまなのですよ、誰も決めることはできません
 奥様、考え直してくださいませ。チュンサンさまの人生なんですよ」
「スファあなたならわかるはずよ、チュンサンの悲しみも辛さも・・・ねぇスファ」
「・・・・奥様・・・・」


目覚めたチュンサンには全く記憶はなかった。
ミヒは命が助かったことを神に感謝を捧げた、しかし日が経つにつれ幼子に戻ったチュンサンが不憫になっていた。
ー全く勝手なことはわかるわ、あの時は命が助かったらと、そして今は前のような賢いチュンサンを望んでいるー


何の疑問も持たず安心しきってミヒに寄り添うチュンサンの髪をなでながら、ミヒは自分が恐ろしいことを考えてことに寒気がした。
チュンサンの穏やかな温かい瞳に見つめられると、忘れていたあの頃の微笑みがミヒに戻ってきた。


「奥様、そんなふうにチュンサンさまをご覧になるなんてスファは初めて見ました」
スファは大きなため息をつくと
「お考えのとおりなさってください、こんなに幸せそうなチュンサンさまを見ることが・・・」
「スファ許してね、あの子の記憶からあなたは消えてしまったのよ」
スファは大きく頭を振り
「かまいません、チュンサンさまが幸せになってくれさえすれば・・・
 スファは決してチュンサンさまの前にはこれから先・・・・現れません」


決断したミヒの行動は速かった。
そしてそのミヒの人生に寄り添うことを約束したイ氏は、何の躊躇いも見せず
ミヒが望むことを的確に処理していった。
僅かな日数で渡米の準備は整った。


数日後、金浦空港にけがをした我が子をいたわる父と慈しむ母がいた。
見送る者もなく3人は飛び立った。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 17


「スファやっと落ち着きました。ミニョンもいえ、あなたにだけはチュンサンと呼ばせて・・」
「お元気になられたのならそれでよろしゅうございます」


春川の家はミヒがカン家から譲られた唯一の財産だった。
そこにはチュンサンが転校という思いがけない行動をした時、ソウルの自宅を手放し、
アメリカへの移住のため必要最低限の家財を運び込んでいた。


ミヒはスファに子供時代のアルバムから一人で写ってるもの、
背景のわからないものを抜き取ること。
そして1冊のミニョンのアルバムを作ること
決して戻ることのないチュンサンとしてのすべての物を処分すること
などを依頼していた。


ソウルと春川を何往復をしながら、スファはたったひとりでチュンサンとの思い出を整理した。
それはスファには身を切られる作業であった。
チュンサンの手にあったものすべてが、スファには愛おしかった。
寂しすぎる18年を思い、スファは心の底から涙を流した。


ーチュンサンさまはもう一生ここには来ることはない・・・なら・・・ー

廃棄処分しようとした箱をひとつひとつ元のあるべき所に置き直した。
あの事故の時、チュンサンが着ていたコート、そしてチュンサンの思い出であろう、紙切れ1枚までも。


春川の家に鍵を掛けスファはチュンサンに別れを告げた。

「奥様、すべてのものを処分いたしました」

春川の家は時の流れから切り離された。





それからの10年、僕はミニョンだった。
ミニョンであることに疑いなんて持たなかった。そうだろチュンソン、自分は生まれる前は何だったろうなんて真剣には考えはしないはずだ。
それと同じで、僕はアメリカで生まれアメリカで育ったイ ミニョン。それ以外の何者でもないはず・・だった。

ん?そうだよチュンソン、僕はカン ジュンサンであると同時にイ ミニョンでもあるんだ。
その人が持っている人格は、簡単に変えることは出来ない。しかし僕はユジンでさえ、同じ顔をした別の人物と言い切れるだけ違っていたんだ。
明るく、よく笑うミニョン。心の底から笑うことも人との接し方もわからなかったチュンサン。
もしチュンサンが普通の家庭で両親揃って育っていたら、ミニョンのようなチュンサンになっていたんだろうか。
人にはもって生まれたサガというものがあると思う、チュンサンのようなミニョン、またはその逆であっても、根底に流れているものは同じはずさ。

僕はお前を見ていてそう思うようになったんだ。
なぜ?
また話が元に戻ったねチュンソン、もう少し僕の話を続けさせてくれ。

そう、僕はイ ミニョンとしてソウルに来たんだ。
帰ってきたわけでも戻って来たわけでもない、僕はソウルに来たんだ。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 18


「私です。今、到着しました。ええ。チュンサンは元気にやってますよね」




ーソウルに出向ですって・・・・。あなたどうにかならないんですかー
ーそんな長くはないよ・・・・心配はいらない、ミニョンならやれるさー
ーそんなことではありませんー
ーわかってるミヒ、でも渡らなくてはならない橋なんだよ。これからのミニョンにとってー


ミヒが世界的ピアニストとして輝いているのは、プロとしての妥協を許さないことにあった。同じことがイ氏にもいえた。
プロとしてそして同じ建築家としてイ氏はミニョンを見つめてきた。
ミニョンが手がけた、ウィスラー・リゾートやカンヌのミュージアムそして数々の建築賞
しかし、企業のトップとしてグループを管理運営していくにはイ氏の原点である韓国を知らなくてはならなかった。
アメリカ人として生きてきたミニョンが、韓国人としての仕事の違い感情の表し方を身をもって知る必要があった。


「どうして?母さんの故郷じゃないか・・・・」
ギグリとした
ー母さんの母校・・・・・父さんとの思いでのつまった母さんの母校・・・・ー
ミヒは呻き声を左手で覆い隠した。

「・・・・ね、母さん・・どうしたの聞いてるの」
「ええ、ミニョンそうね」
「僕が仕事を持ってから一緒に暮らしてないんだよ、それに母さんだって演奏旅行で留守がちだし、ここにいようとソウルにいようと同じことじゃないか」
「そうだったわね、ええ、ただ心配で・・・」

ミニョンがミヒの身体にそっと腕を回し抱きしめた。

「・・・ミニョン・・」
「母さんなんの心配もしないで、僕は大丈夫だから。それにソウルにはパリであったチェリンもいるんだ」
「そうだったわね」




「先輩どうして僕の好みがわかったんですか」マルシアンに初出勤をし、自分のオフィスの椅子に腰掛けミニョンが聞いた。
「そりゃわかるさ、ミニョンのことなら」キム次長は何がと思いつつミニョンにウインクをした。
ミニョンは苦笑しながら
「いいえ、セッテングのことじゃなくて細かい物の配置ですよ、たとえばこの机の中の筆記用具の置き方やメモ用紙の配置ですよ」
次長はミニョンが指さす方を覗き込んだが、首を横に振った。
「どこがどう違うんですか、俺にはさっぱり。でも理事の部屋はいつもと違う人が来て片付けてたな」
「もういいですよ、先輩。再会を祝して飲みに連れて行ってください」
「ああ俺も今それを言おうと思っていたんだ、さあ、初めての韓国へようこそ理事」




「おかしいな」
ひとつだけ欠けているジクソーパズルを眺めながら、どこでなくしたんだろうと考えていた。
音もなくドアが開き掃除の人が入ってきた。
「申し訳ございません、まだおいでになっていないとばかり・・・」
「いえ、今日は少し早く来たんです。ところで掃除のとき、ここの欠片を拾いませんでしたか」
彼女は食い入るようにミニョンを見つめていたがあわてて
「・・・いえ、気がつきませんでした」
「そうですか・・・僕の顔に何かついてますか」
顔を赤らめ目を逸らした。

「僕の部屋だけを担当してくださってるんですよね、お名前は」
「・・・・チョです」
「チョさん、イ ミニョンです。これからもよろしく」

ミニョンはチョに右手を差し出した。
チョの手は震えていた。




「はい奥様、チュンサンさまは代表理事として頑張っていらっしゃいます」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 19


ー チョさん、しばらくの間スキー場に行くことが多くなると思います。いつも使い勝手の良いようにしていただいてありがとうございます。イ ミニョン ー


いつものように机に手を掛けたスファの目に、チュンサンの懐かしい大人になった文字が置かれてあった。
宝物を見つけたかのようにスファはメモをそっとポケットに入れた。

パズルにはいつの間にか、なくなったはずの一欠片がはめ込まれていた。
そのパズルの前に佇みスファは思い出していた。


「ねえスファ、見て見て」
「あらもう出来てしまったんですか、今度は難しいと思ったんですけれどね」
「大丈夫だよスファ、また壊してはめ直すと何度でも出来るんだから」


パズルを愛おしそうに撫でた。
「チュンサンさま、スキー場は寒いですよ。風邪を引かないでくださいね」
スファの声が主のいない部屋に吸い込まれた。



ある朝、スファの携帯が鳴った。
チュンサンがソウルに来ることがわかったとき、ミヒが10年ぶりにスファを訪ね、連絡用にと渡してあった。
この携帯にかけてくるのはミヒだけである。

「・・・・スファ・・」
「奥様お加減はいかがですか。リサイタルの後に倒れられたと報道されましたが」
「もう大丈夫よ、それよりスファ、チュンサンがカン ジュンサンを知らないかって・・・」
「なんてことを・・・」
「自分とそっくりで自分と同じくおぼれたカン ジュンサンを・・・」



あの日、別荘を購入して初めて滞在したときのことだった。
まだ、今のような建物ではなく古い民家のようなものだった。
そこで海外公演の疲れをいやそうと、ミヒはスファを連れ、休みに入ったチュンサンと
訪れていた。
大量の荷物を運び込んでいた隙にチュンサンがひとりで水辺に行き、おぼれていたのを、救出されたのだった。
水から引き上げられたチュンサンはもう息をしていないのではないか、と思うほど白い顔をしていた。
ほとんど半狂乱に近いミヒをなだめながら、スファもガタガタ震えていた。
医師の懸命な人工呼吸で水を口から吐きだし、息を吹き返したとき、母親としてのミヒをスファは目の当たりにした。
あの目覚めたとき、チュンサンがはじめに口にした言葉は
「・・・・ママ・・」
スファがミヒのため、チュンサンに尽くそうと心を固めた日であった。



「記憶が戻られたのですか」
「まさか・・・!そんなことはないはずよ」
「奥様・・」
「いろいろあって疲れたわ、スファ・・・・」

ーチュンサンさま、何を考え何を思っていらっしゃるのですかー



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 20


「チョさん、理事が来ませんでしたか」
朝早く、飛び込んできたキム次長がせき込んで尋ねた。
「いえ、お見かけしませんが。どうかなさったのですか」

ミニョンの机に寄りかかって机の上に置かれたプレートを弄びながらキム次長は独り言のように言った

「記憶がないって?僕が過去を覚えていないって?って言ったきりどこかへ行ってしまったんですよ」
「・・・・記憶がない・・」

チョがいたことに気が付き
「いや、チョさん、理事の冗談ですよ、ユジンさんとのことがあってからどこかおかしいんですよ。恋の病かな」
キム次長が話を笑い飛ばそうとしたが、チョの顔がさらに険しくなった。

「ユジンさん?恋の病?次長さん、理事さまに何があったんですか」
「チョさんどうしたんですか、そんなに驚いて。理事のことをご存じなのですか」
「いいえとんでもありません。一度ここでお会いしたのです。優しくしていただいたのでつい」
「そう理事の欠点は女性に優しすぎることですよ」
そういうとキム次長は片手を上げて出ていった。

ー チュンサンさまどこにいらっしゃるのですか ー





自分が誰なのかわからない不安、いやそれ以上の恐ろしさ
チュンソン、誰の言葉を信じていいのか、誰も信じられない想いがわかるかい。
ましてやアン医師の決定的な言葉
僕は28歳のイ ミニョンでありながら18歳のカン ジュンサンと向き合わなければならなくなった。
しかし思い出すものなど何もない。
ただ自分が以前カン ジュンサンであったこと。
ユジンがあれほど恋焦がれていた人、それが自分であったなんて。
愚かしいことにどんなにユジンを苦しめたであろうと、頭の中でわかっていても
心のどこかで僕があのカン ジュンサンなんだ、という歓びがあったことは隠せはしなかった。
それが今まで以上に誰かを苦しめることがわかっていてもね。

あのまぶしいほどの冬の朝を僕は忘れはしない。
カン ジュンサンであることを諦め、イ ミニョンとしてアメリカに発とうとした。
そうユジンを置いて・・・・ひどいだろ・・
あの時カン ジュンサンでなくてもよかったはずなんだ、なぜなら僕はイ ミニョンとしてポラリスのチョン ユジンを愛していたから。
でも、それじゃあの時はダメだったんだ。

道路を横切るユジン
冬の日差しに僕は目を細めた
突然のクラクション
迫り来るトラック
僕はユジンを突き飛ばしたとき18歳のあの大晦日の夜を彷徨った。
「・・・・ユジン」



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「To the future 」 − 回転木馬 − 21


「ただいまジェニファー、フラン誰と電話してるんだい」
「韓国のお父様とお母様よ。新年のご挨拶なのよ」
「新年・・・旧正月か」
「忘れてたの?チュンソン」

電話に夢中になっているフランソアの傍らに座り、柔らかい頬にキスをした。

「パパ! おばあちゃまパパが帰ってきたの・・・・はいパパ・・」
「もういいのかフラン・・新年おめでとう お母さん・・ええ、元気ですよ
 そちらは寒いでしょ・・・・・えぇ大丈夫ですよ。お父さんも・・・・・
 もうすぐお父さんの誕生日ですね。行けないかも知れません・・無理はしませんから・
 お母さんは相変わらず心配性ですね・・えぇ・・ありがとうございます。
 ジェニファーとは・・・もう話したんですね。はい、お休みなさい・・・・・・・」

チュンソンが電話を置き振り向くと、背伸びをしたジェニファーがチュンソンの顔を包み込みくちづけた。「お母様に会いたくなった?私は会いたいわ」こぼれ落ちそうな言葉を呑み込みチュンソンはジェニファーを抱きしめた。




「10年間、誕生日も知らず生きてきた・・・・・」
まさかそんなことはないはずだ。
パスポートに誕生日は明記されていたし、その時その時付き合っていたガールフレンドからはプレゼントを貰っていた。もちろんチェリンからも・・・・・。


今考えてもわからない、僕はイ ミニョンからカン ジュンサンに戻ったとき、
ものの考え方、捉え方すべてのものがカン ジュンサンになっていた。
何がそうさせたのだったのか。
それも今となっては説明が付かない。
目覚めたときユジンを見つけた。僕はうれしかった、ただただうれしかった。
それだけでは僕はカン ジュンサンになれなかった。僕は家を必要とし、過去を探しそして父を求めた。
ユジンのための本当のカン ジュンサンになってあげたい・・・・
いや違う・・・よみがえぬ記憶の奥底の不安が僕を掻きたてていた。

あのソウルに来たときのイ ミニョンだったなら、決して犯さないだろ愚かな間違いを積み重ね、僕は見えているはずの美しい景色をも見失っていた。

何に向かって歩いていたんだろうか。深い深い絶望の淵に佇み脆い路肩に足を掛けた。

忘れ去られようとしたイ ミニョンの嫉妬だったのだろうか。




********
「To the future 」 − 回転木馬 − 22


「ええ、愛しています」

スファの目はミヒを捉えたまま逸らそうとしなかった。
「奥様がチュンサンさまを愛していらっしゃるように私も愛してました、いえ今も愛しています」

だから許せなかった。

ミヒが生きていくためにミヒ自身が支えとするために、自分に吐きとおしてきたもの。
チュンサンの為にさえ、捨てることが出来なかったミヒ。
ミヒが守りたかったものはチュンサンではなかったのか、チュンサンでなければならないはずなのに。



どちらの母も許してくれなかった。
だからといって、気持ちの奥底からこみ上げてくる激情に流されるわけにはいかなかった。
手を放したくない。彼女をこの胸に抱きたい。
1枚のドアが岩石のように僕たちを隔てていた。



「僕の父さんは誰?」
チュンサンだったのよ、スファ。紛れもなくチュンサン。
私はどう言ったらよかったの・・・・
私の中に命が育まれたその瞬間からヒョンスの子どもだったのよ。
嘘じゃなかった。でも真実でもなかった。
あの子はヒョンスの子ども・・・・・そう信じたかった。

取り返しのつかないものがジリジリと燃やされていくようなもどかしさ。
スファの中でチュンサンとの思い出までもが焦げていた。
ミヒの罪がチュンサンを身ごもった時まで遡るとしたら、
スファの罪はミヒの恐ろしい計画を受け入れたあの時にあった。


幼い時から寂しさと孤独を知っていたチュンサンその彼が愛した人
チュンサンの閉ざされた笑顔を引き出してくれた人
明るくよく笑うイミニョンを愛してくれた人

スファは顔も知らないユジンの声を聞いた。

「愛してます」



僕は祈った
「神よ、お許し下さい」

あの言葉を忘れはしない、僕は神を欺こうとしたんだ。
でも神はすべてを見通していた。
サンヒョクは愚かな僕への神の使いだった。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 23


「・・・・一緒に行くよ」
「チュンソン・・・いいの・・・」


春の日差しを浴び、3人はゆったりと美しく刈り込まれた芝生を歩く。
緑を渡る風が擽るように流れていく。
チュンソンの髪は風のいたずらにまかせ、ジェニファーの長いスカートの裾は風を含んで軽く煽られる。
フランソアは風のミューズと戯れている。

ジェニファーは黄色だけで作られた小さな花束を握りしめいていた。
花を持つ手の関節がそこに近づくにつれ白くなっていく。
チュンソンの手がジェニファー手を繋いだ。
「そんなに握りしめたらお花が萎れちゃうよ」
チュンソンの言葉に肩の力を抜いたジェニファーがそっとささやいた。
「ありがとうチュンソン」


ジェニファーの手から花束がそっと冷たい石の上に置かれた。
「ねえパパ、誰のお墓なの。なんて書いてあるの」
「読んであげようねフラン・・・・・・・・・
 私たちの愛する息子フランソア
 あなたの25年が短かったと誰が言えよう
 人に愛され人を愛し、神に愛された
 いつか神の御前で会える日まで・・・・・・・・」
「・・・・・・あのねジャンが言ったの、フランの名前は男の子の名前だぞって。そうなの」
「フランは自分の名前が嫌いかな」
「そんなことはないわ、フランソア・・好きよ」
「そうだよパパも好きだよ、そしてママも」

「ママ、黄色いお花が好きな人なの」
「ええ、春一番に咲く黄色が好きだったのよ」
「・・・フランソア・・フランも黄色い花がすきよ」

ジェニファーがフランの体を引き寄せた。
そのジェニファーとフランをチュンソンが両手で抱きしめた。

一陣の風が3人を包み込むように舞い上がった。

チュンソンとジェニファーはあの日のことを思い出していた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 24


幼いときからいつも周りには友達がいた。
ひとりで過ごすことなんて考えられなかった。
パリに来てからもすぐにたくさんの友達ができた。
チュンサンの「友達の作り方を知らなかった」なんて、チュンソンにとっては驚き以外の何物でもなかった。



彼女を初めて見たとき、チュンソンの何かが音を立てた。
心の奥底に仕舞ってあった、箱が蓋を開けたような気がした。
「・・・ジェニファー?・・撮影が終わったら食事をしないか・・」
驚いた顔が頬を桃色に染めた。大きく頭を振ると「約束があるの」と呟いた。
落胆の色をチュンソンは隠せなかった。


彼女はアランの雑誌の編集者として、撮影に立ち会っていた。
初めて見たときこんなに華奢な女性が現場を取り仕切れるのかと訝った。
しかし彼女のたおやかな対応と人を逸らせない見事な手腕には驚きでさえあった。


「どうだいチュンソン、彼女は」
「アラン、こんなに素敵な人をどこに匿っていたんだ」
「珍しいなデートの対象じゃなく仕事の対象として彼女を見てたんだな」
「ひどいな、女性と見ると見境がないように聞こえるじゃないか」
「違うのか・・まあもっとも女性達が放っておかないがな」
「・・・・」
「でも、彼女はダメだな」
「なぜ・・・・・・・・」
「いつも迎えに来ているんだ、聞いたことはないがきっと恋人だろ」
「アランのきっとはあてにならないからな、あの時だって僕とチェリンのこと誤解してじゃないか」
「・・・・まあな」苦笑いをしながらアランはジェニファーに近づくと声を掛けて現場から帰っていった。



チュンソンの横をジェニファーが走り抜けた、その先に男の後ろ姿が見えた。

「・・・・・」ジェニファーの声に男が振り向いた。

「フランソア」「フランソア」ジェニファーとチュンソンの声が共鳴した。

ジェニファーの驚きの顔と「チュンソン」フランソアの驚きの声が重なった



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 25


「チュンソン、お前が絵筆を捨てた以来だな」フランソアの声に詰るような響きがあった。
「・・・・フランソア・・ああ久しぶりだな」
あの決断をした胸の苦みがチュンソンの腹の底から口の中に広がった。


何杯目かのモルトを流し込んでフランソアはチュンソンに目を据えていた。


お前が自分の才能に見切りをつけた時、お前をライバル視していた俺の気持ちが分かるのか。
あれほどの絵を描いていたお前が・・・・・・・
一見しては温かな優しい気持ちにさせる絵だが、深く見ると気持ちを泡立てさせる冷たさ・・いや寂しさ・・かな
そんなものを持ち合わせていたお前が絵筆を絶ったんだ。

フランソア・・・

俺はいつも思ってた、チュンソンお前には勝てっこないって。

・・・・・フランソア、君の絵はいつも素晴らしいじゃないか。

チュンソンそれは画商としての言葉か。

・・・友人としての言葉だよフランソア・・・

画商カン ジュンソンの目には留まらないってことか・・・・・・


「フランソア飲み過ぎよ、さあ帰りましょ」
ジェニファーがフランソアの腕を引っ張った。
「ジェニファーわかった帰るよ・・・ジェニファー・・いつも言ってた素敵な男って・・チュンソンのことか・・・」
フランソアの濁った目がジェニファーを捉えた。

フランソアの言葉にチュンソンもジェニファーを見つめた。
さぁっと顔を赤らめたジェニファーはチュンソンを一瞥し、フランソアに目を戻した。

「ええ、そうよ。彼のことよ」
「・・・・・・・・・」
「ジェニファー、君とフランソアは恋人じゃないのか」
「・・・まあそんなようなものかしら」
「嘘を吐くなよジェニファー・・・チュンソン、ジェニファーは恋人でも何でもない。そう思わせてるだけさ・・・だからお前も手を出していいってことさ」

「フランソア!」「フランソア!!」
チュンソンの手がフランソアの頬を張り飛ばしていた。


のろのろと立ち上がったフランソアが呟いた
「チュンソンお前が手が早かったことを忘れていたよ」
「フランソア今のこと謝らないからな」
「・・・・ああ・・」

フランソアを支えるジェニファーの背中をチュンソンは雑踏に消えるまで見ていた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 26


「アランいいかな」
「珍しいなチュンソンが会社に訪ねてくるなんて」
「・・・ランチを一緒にしようかと思って」
「ランチね・・付き合うよ」


「さっきから何の笑いをかみ殺してるんだアラン」
テーブルに肘をつき煙草を燻らしているアランの唇が笑みを浮かべていた。
「カン ジュンソンとあろうものが恋の病かね、どんな女でも君の微笑みにかかると簡単に落ちるんじゃなかったのか」
「・・・・・」アランの紫煙に目を細めたチュンソンがテーブルの上に置かれたアランの煙草に手を伸ばした。
ーカチッー
閉じられたライターからオイルのにおいが漂った。


「いい男がふたり無言で顔を付き合わせていると、周りがいつあのふたりがテーブルの上で手を重ねるか見てるぞ」
アランの目が笑っていた。
「そんな趣味もないくせによく言うよ。チェリンおばさんにぞっこんのくせに」
「おいおい、おばさんはないだろう。聞こえたら怒るぞ」
「・・・チェリンのどこがよかったの・・」
「子どものお前にはわからないよ」アランの左の眉が微かにあがった。
「僕が子どもだって?」
「ああ、自分の胸の痛みもわからない無邪気な子どもだよ」


テーブルの上を皿に触れるナイフとフォークの音だけが響いた。


「チュンソンいつか言っていたな、お前に恋をして亡くなった女の子のこと」
「高校の同級生だよ」
「その子はお前が初恋の相手だったんだろ?」
「・・・そう言ってた」
「お前はその子が初恋だったのか?」
「・・・・何が言いたいんだアラン」


ワインに口を付け首を傾げた
「ちょっと甘くないかチュンソン・・・・ワインがだぞ・・」
チュンソンがワイングラスを持ち上げた。
「そうかな?僕にはちょうどいいけど」


ーUn cafe, s'il vous plait!ー
カップにたっぷりのコーヒーを飲み干し冷たい水を口に含んだ。
「さあ、仕事だ」
「アラン僕が誘ったんだから・・・・」
「チュンソン韓国じゃ全部支払いは年上のものがやるんじゃないのか」
チュンソンは苦笑いをした。

「ああそうだチュンソン」
足を進めようとしたチュンソンの腕をアランが捉えた。
「さっき言い忘れたが」
「ん?」
「チュンソン、恋はされても、お前は恋をしたことがないんじゃないのか」
「・・・・・・・」

ギャルソンに声を掛け歩いていくアランの背中を見つめ、チュンソンは立ち尽くした。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 27


フランソアの恋人がジェニファー、君だなんて。
神は僕に何の罰を下さってるんだろうと考えた。
僕が声を掛けるたび頬を染める君をどんなに愛らしいと思っただろうか。
君がフランソアに寄り添い歩く姿に僕の心は嫉妬で狂いそうだった。


輝く金色の髪に手を差し入れて君を引き寄せる夢を何度見たことか。
眠られない夜を幾晩過ごしたんだろう。

恋をするってこんなに切なかったのだろうか、苦しかったんだろうか。
忘れていたものが僕の中に流れ込んできた。
手を伸ばせばいつでも自分のものになった美しい女性達が一瞬にして色あせていた。


うつらうつらしていた僕は何かに揺り起こされた。
僕の心のあの箱に閉じこめていたものが零れだし流れだし
体全体を切ない甘い想いに包まれていく


そうこの想い・・・・


最初で最後の君とのデート
秋の公園を君の乗る車椅子を押しながら僕は涙を止めることが出来なかった。
そんな僕に君はいつもの口調は潜め、微笑んでいた。

ーチュンソン、いつか愛する人が出来たとき、私が応援してることを覚えていてねー

そんなことを言う君を僕はまるで天使のように見えた。でもそれを声に出して言う術をその時の僕は知らなかった。
僕の頬を伝う涙をそっと拭う君の指に僕はそっと唇を寄せた。
君の体がビックンとしたのを感じ、僕はたどたどしく君に唇を重ねた。


そうこの想い・・・・

君は僕の初恋
甘く切ない思い出


そして今、僕はジェニファーに恋をしている


ージェニファー僕は君を知りたい、君の目は僕を見てくれているのかー



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 28


チュンソン初めてあなたを見たとき、私の中に流れているすべての血がドクドクと音を立てているのがわかったわ。
時々アランが話す素敵な男があなただって知ったとき、私はあなたに恋をしていた。
そして同時にあの微笑みが美しい女性たちに向けられるとき私は・・・・・嫉妬していた。


撮影が押して遅いランチのとき、神の采配なのかふたりが取り残されていた。

ーあれ置いて行かれたのかー
ーそうみたいよー

ジェニファーの声は喉に張り付いたように掠れていた。すぐ傍にチュンソンが立っていることにジェニファーは戸惑いを覚えないわけにはいかなかった。
そっと顔を上げチュンソンを見ようとしたとき、チュンソンの手がジェニファーの頬を挟んだ。
開け放された窓から差し込む午後の柔らかい日差しと微かな車の音だけがふたりを包み込む。
チュンソンの唇が優しくジェニファーを捉え、そして次第に深いくちづけに変わっていく。
お互いを探るように・・・。

ドアの外に話し声と足音が聞こえたとき、ふたりは長いランチの時間同じ場所に立ち通ししていたことに気づいた。
そっと離れて鏡を見たジェニファーは自分ではないようなジェニファーを見ていた

ーこれが私なのー

チュンソンの腕の中ですべてを解き放たれたジェニファーがいた。

その日の午後の撮影はふたりにとって果てしなく長かった。
ふたりは手を重ね、お互いだけを見つめ夕闇に姿を消した。
フランソアの視線さえも覚えず・・・・・・。


数日後、アパートメントに戻ったジェニファーが目にしたのは、フランソアの跡形もない部屋だった。
亜麻仁油とテレビン油の臭いだけがフランソアがいたことを物語っていた。


ジェニファーは失ったものの大きさに初めて気が付いた。
5歳で両親を交通事故で失ったジェニファーを、遠い親戚のフランソアの両親が引き取り、
「ママン」を求めて泣きじゃくるジェニファーの手を握りしめてくれたのがフランソアだった。
あの日から一時も離れたことのなかったジェニファーとフランソア。


ジェニファーの衝撃の大きさにチュンソンは戸惑いを覚えた。

ジェニファー・・君といたい・・
眠るときも目覚めるときも僕は君を感じていたい。
僕は君の手を決して離さない・・・決して・・・・。


あの1本の電話が鳴るときまでは・・・・・。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 29


フランスの大学の厳しさはフランス人でさえ大変なのに、チュンソンは2年間のDEUGを終了後、Licence、Maitrise、さらにDEAを経てDoctorat課程の終盤に向かおうとしていた。
同じ頃アルバイトで得た収入で、ほんの数点展示できる小さい画廊も手に入れた。

ジェニファーとの出会いが初春だとしたら、今まさに春真っ盛りを思わせた。

お互いの仕事が忙しくすれ違いが続いても僅かな温もりがささくれそうな神経を癒した。
ジェニファーの編集者としての才能はアランの手によって大きく羽ばたき、フランソアと過ごした日々が絵に対する的確な判断力をも備えていた。
それらは暮らしの中で日々発見し育まれていった。


「チュンソン・・・」
「アラン電話なんて珍しいな」
「その調子だと知らないな・・・・」
「・・・・・・・・・・・・アラン・・・ありがとう」



初夏を思わせる日、チュンソンとジェニファーはある建物の前に佇んでいた。
「チュンソン、ここはどこ」
「ホスピスだよ」



「フランソア・・・」
「・・・ジェニファー・・」
「いつからなの・・どうして知らせてくれなかったの」
「ジェニファー幸せなんだろ・・・よかった・・お前が幸せなら。俺ならまだくたばりはしないよ、ほら、絵だって描いてるんだぞ」
「・・・・・フランソア・・」
「ジェニファー、チュンソンは一緒じゃないのか」
「彼は廊下で待ってるって・・呼んでくる?・・」
「・・・いやいい・・・」
「フランソア・・」



涙が幾筋もジェニファーの頬を伝わった後を指でなぞり、チュンソンは腕に抱いたジェニファーを見つめていた。
夜が明けようとした時そっとベットを離れ電話を掛けた。
「・・アラン・・こんな時間にすまない・・・・・・・」



「乗って・・・ジェニファー」
「チュンソン・・大丈夫よ・・・」
「いいから乗って・・・」
「・・・どこへ行くの会社の方じゃないわ・・・チュンソン」


「チュンソンどういうつもり、仕事があるのよ」
「代わってもらったよ、アランとはもう話が付いている」


「・・・決して手を離さないって約束したじゃない」
「すまないジェニファー、でもフランソアは君じゃないとダメなんだよ。わかってるんだろ」

「チュン・・・ソン」

「・・行って・・僕が君を車に押し込まないうちに・・・早く<・・行っ・・て」

青ざめたジェニファーは振り返りもせず走り去った。


ジェニファーの温もりの消えた部屋は寒々としていた。
「フランソア・・・あの時きみもそう感じたんだろう・・・」



チュンソンはすべてから逃げた。
そして無条件に自分を受け入れてくれるあの場所に向かって飛行機に乗った。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 30


「チュンソンお兄さん!どうしたの」
「ビョルの顔を見たくなったから・・・だけじゃダメか?」
「ううん、びっくりしたの。だってさっきお父さんとお母さんもアメリカから帰ってきたのよ。打ち合わせたの?」
「えぇ、お父さんとお母さんも来てるの」


チュンソンは用心深くすべてを陽気な仮面の下に隠した。


ソウルに来て幾日か過ぎたある夜、
「チュンソン、こんなにゆっくりとした夜が続くなんて滅多にないな」
「そうですね、いつもは何かに追いまくられて過ごしているものね」
「僕の話に付き合ってくれるかいチュンソン・・・」



何故お前なのか

何故僕なのですか

チュンソン、お前がきっとあの時までのカン ジュンサンに似ているからなのかな

あの時

そうあの時僕



幾晩もの話の途中で交わされたこの言葉、そしてある晩。
「チュンソン、抱えきれない悲しみはないよ。君が抱えきれるだろうと神は判断をして、君にその試練を与えたのだから」
「お父さん・・僕にはそうは思えない」
「何度も聞いたね、何故僕なのかと」
「・・・ええ・・」
「あの時、僕がユジンを手放したあの時とお前がきっと同じ顔をしているからだよ」
「お父さんがお母さんを手放した・・・・・・そんなことが・・・」

「違う道を歩んでいたふたりが寄り添うんだよ、それぞれがそれまでに抱えていた過去までもひっくるめてね」
「すべてをひっくるめて・・」
「そうだよ、新しい道は作っていけるが、過去は直せないんだ」


僕はジェニファーのすべてを本当に受け入れていたのだろうか。


「チュンソン、お願いがあるんだ」
「お父さんが・・僕に・・」
「ああ、一緒に行ってくれないか」
「・・・どこへ」
「チュンサンの過去に・・・・・・・」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 31


ソウル郊外の住宅地に僕たちは立っていた。
そこは開発から取り残された古い住宅が建ち並んでいた。

「ここのはずなんだが」
チュンサンは住所を書いた紙と表札を見比べていた。
「お父さん来たことのない家なんですか」
「ああ、それに名前も定かじゃないんだ」


「奥さんの名前よりわからないんですが・・・・そう・・そこですかキムさんですね。ありがとうございます。チュンソンこっちだ」


そこは他よりさらに古い家のようだった。
案内を請うとチュンサンと同じ年くらいの女性が出てきた。

「何時来たってダメだよ、家を建て替える金なんかありゃしないんだよ」
「いえ、違います。ここにチョ スファさんがおいでになるってお聞きしたのですが」

「スファ・・・・・」
チュンソンは思いがけないチュンサンの言葉に驚いた。


日の差し込まないどこか湿ったような一室にスファはいた。
「おばあちゃんお客さんだよ、沢山の果物をいただいたわよ」
「まぁ、すみませんね」
スファがゆっくり振り返った。僅かな光を背に浴びスファの顔が影になってはっきり見えなかった。

「スファ、僕がわかるかい」チュンサンの声が震えた。
「ああ、おばあちゃん目が見えないんですよ。突然なんですよ、見えなくなったのは・・・・・あの電話があってしばらくしてからだと思うんだけど・・・」
彼女の口から一連の出来事が止まることなく喋り続けられた。


ある日、1本の電話がスファに掛かってきた。
珍しいことだった。
「・・・手術ですか・・・奥様・・・・わかりました。私に出来ることは祈って・・・」
その日からスファは何かを呟きながらひたすら考えているようだった。

彼女が時折口にする言葉は 
ーすべての罪は私にありますー
ーあの時・・・何故あんな事に従ったの・・・ー
ー罰ならもう充分です・・・ー
ー私を罰して下さいー

あの頃、おばあちゃんが壊れたのかと思いましたよ。
話し続けながらスファの肩に上着を掛けながら、「寒くないの、おばあちゃん」と細やかに声を掛けていた。

「スファ、幸せなんだね」
チュンサンの声に話し続けていた女性は涙を浮かべたチュンサンを驚いたように見、部屋から出ていった。

「チュンサンさま、嫁はいい人なんですよ。私は孫達と一緒にお母さんと呼んでますよ」

穏やかな口調で優しさをいっぱい含んだ、その人スファが口を開いた。

「スファ・・・」チュンサンの両手がスファの肩を抱いた。
「チュンサンさま・・・」スファの目から涙がこぼれた。

「もうお会いしないと誓ったのに・・・また神様に叱られますね・・・」
「・・・・何があったのスファ・・僕のためになの・・・スファ・・・」

長い沈黙が続いた。
優しい声が過去の扉を僅かに押した。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 32


「そちらにおいでになるのはどなたですかチュンサンさま」
「僕の息子だよ」
「・・・ユソンさまですかチュンソンさまそれともミンソンさまですか・・・」
「!!」



「チュンソン、もっとゆっくりボールを蹴るんだよ危ないだろう」
「だってつまんないよ」
「だめだよ、ミンソンが怖がるだろう」
チュンソンの右足がボールを思いっきり蹴り上げた。ボールは門扉を越え道路に飛びだしていった。
「チュンソン!ミンソンだめだ門から出ちゃだめだよ。ミンソン!」

キィーというブレーキ音とガチャンと自転車の倒れる音が響いた。

ミンソンの後を追って道路に出たユソンとチュンソンが見たのは、自転車のおばさんの倒れた姿と誰かに抱きしめられたミンソンだった。

「なによー危ないじゃなの、飛び出してくるなんて・・・もう・・・」
自転車のおばさんは、ぶつぶつ言いながらさっさと自転車を起こすと逃げるように行ってしまった。

「今の音はなんなの」家からユジンが駆けてきた。
「・・・ミンソン・・大丈夫なの怪我してないの」
ユジンの顔を見るなり両手を広げてしがみつきワーワーと泣き出した。
「びっくりしただけですよ奥さま、怪我をしてませんよ」


その日、珍しく出かけたスファが足を向けたのは以前からミヒに聞いていたチュンサンの住む家だった。
決してチュンサンに逢うつもりのないスファだったが、子ども達の声に誘われてしばらく門の前に立ち賑やかな声に耳を傾けていた。

是非お礼をとの誘いを固辞していたスファだったが、子ども達が手を引っ張って家に誘い込んだ。

ユジンがお茶の支度をしている時、サイドボードに飾られた写真に目がいった。
「おばちゃん、これ僕のパパだよ」チュンソンが指差すところにあのチュンサンがいた。
「・・・素敵なパパね・・・」
「うん、パパ目が見えないんだよ。でも何でも出来るんだよ」
スファは込み上げてくるものを呑み込んだ。

「チュンソン、手を洗ったの。お菓子があるわよ」ユジンがキッチンから出てきた。
「奥さまお腹が大きんですね」
「ええ、8月に生まれるんですよ。でも大変」ユジンがクスクス笑った。
「おばちゃん、妹が生まれるんだ」
「あらもう妹ってわかってるんですか?」
「だってパパがそう言ったんだ、ママにそっくりの女の子がいいなって」
「まあー・・・」
「ユソン、そうだったらいいなってパパがおっしゃったのよ」
「きっとそうなりますよ奥さま」スファの目が笑っていた。


「あらいい匂いがしますね」
「大変、焦がしちゃう・・・・・・あ〜あ、やっちゃった」
「ごめんなさい私のせいですね」
「いいえとんでもない、外に出る時にもう止めなくちゃいけなかったんですよ」
「・・・・今日はなにかお祝いでもあるんですか」
「ユソンの・・長男のユソンのお誕生日なの。8歳になるんですよ。あ〜どうしよう」
「今日5月12日ですか。・・・このご飯の変わりのものがあればいいんですね」
「ええそうですけど・・・」

手際のいいスファを驚いたように見ていたユジンにスファが笑いながら言った。
「奥さま亀の甲より年の功ですよ、じゃあ私の特製のタレをお作りしますね。これは嫁にも秘密なんですよ。特別に教えて差し上げますね」


チュンサンが口に入れたとたん「スファ僕これが好きだよ」「そうですよだってスファの特製ですもの」幼い日の会話を思い出した。
「ユジン、これどうしたの・・・」
「ええ、おいしいでしょ」
「・・・うんとっても・・・」
「特製なのよ」
「・・・・・」



「あの時お腹にいたお子さんは女の子だったんですよね」
「そうだよ、ビョルっていうんだよ」
「・・・チュンサンさまもう寂しくありませんね・・・・」
「スファ・・・・うんそうだよ・・」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 33


「・・・・ありがとう・・わかったよユソン・・・・」
電話を閉じながらチュンサンが軽いため息をついた。
「お兄さんはなんて・・・・・」
「やっぱり診察してみないと何とも言えないそうだ」




「チュンサンさま覚えていらっしゃいます?私の実家に一緒に行ったときのことを」
「・・・・・まだ暑かった時かな・・・・」
「秋夕の時です。私の小さい弟と妹があなたのことを珍しそうに見ていたんですよ」


何でケンカが始まったんだろう。そうあれは僕が6歳の時。
スファの傍を離れない僕を無理矢理外に連れて行き・・・・虫取りをしたんだ。


ーやい、虫も触れないのかー
ー・・・・さわれるよー
ーならやって見ろよ、姉ちゃんがいなきゃ何にもできなくせにー
ーできるもん・・・・・・ー


僕は彼に飛びかかって押し倒した、でもすぐに彼に組み敷かれそのまま取っ組み合った。
あの時スファに物凄く叱られた。

「スファが僕のことを叱ったのはあの時が初めてだった」
「そうですよ。ふたりとも砂と土埃にまみれてそれはひどかったんですよ」
「・・・彼、弟さんは元気にしてるの」
「ええ、きっとチュンサンさまに会ったと言ったら、懐かしがるでしょうね」
「スファ・・・・僕にも楽しかった思い出があったんだね」


「おばあちゃん、お茶を運んできました」廊下から声がした。
「孫娘ですよ」

お盆に載せたお茶を差し出しながら、その子はチュンソンを見つめていた。
「あらどうかしたの?」スファが声を掛けた。
「おばあちゃん、ちょっと待っててね」
「まあどうしたのかしら」
訝るスファにチュンサンが微笑んだ。

「チュンソンを見ていたから何か気がついたんでしょ、さあ、スファお茶だよ。熱いから気をつけて」チュンサンがスファの手に湯飲みを持たせた。
「・・チュンサンさま・・すみません」スファの声が震えた。
「ねぇスファ・・僕にできることがあったら言ってくれないか」
チュンサンの手が湯飲みを持つスファの手に重ねていた。


その時パタパタと走る音がして戸が開いた。
「これ!あなたでしょ」
雑誌を手に興奮した声が飛び込んできた。
チュンソンは雑誌を手に取ると笑みを浮かべた。
「こっちでも出てるんだったね、そう僕だよ」
「ここにサインしてもらえる」
「いいよ。君の名前はまだ聞いていなかったね」
「わたしね、ユジンっていうのユ・ジ・ンよ」
「・・・・・可愛い名前だね・・・・」
「でしょ。おばあちゃんが付けてくれたんだって」


「スファ・・・・・」
「チュンサンさま、スファの願いはもう叶ってますよ」
スファはチュンサンの手をそっと包み直し、優しくさすった。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 34


父チュンサンはすべてから解き放たれたように見えた。
チュンソンに語られた幼き日の切ない思い出は、スファの存在と共に変化をもたらした。

ー何故お前なのかー

「あの時僕はサンヒョクにユジンを託し、彼女の元を去ることが最良のことと信じていた。
 それがどんなに彼女を傷つけるかそんなことは考えもしなかった」

ー父チュンサンと母ユジンの3年ー
それがどんなに辛く悲しい日々であったか、僕にすべてが理解できただろうか。

「チュンソン、お前に何があったのか僕にはわからない。
 でも自分の気持ちだけで動くことは相手を思いやっていないってことだよ。
 タダの自己満足に過ぎないと・・・・僕だから分かるこ・・と・・・」

チュンサンの声が途切れた。

「・・・・・お父さん」

「・・・あの辛い3年があるからこそ、いやあったからこそ、今の僕たちがあるんだと思えるんだが、
 でも・・・・・。チュンソン、しっかりと話し合うんだよ。僕が言えるのはそれだけだよ」

チュンソンはそっと書斎のドアを閉めた。



「お母さん・・・・・・」
リビングの窓から外を見つめているユジンにチュンソンが声を掛けた。

「お父さんとお話しは終わったの」
「ええ・・・」
「チュンソン、ポラリスが見えるわ。キラキラしてる・・・綺麗よね」

チュンソンはユジンを後ろから抱きしめた。
「お母さん愛してるよ・・・」
「チュンソンいつもあなたのことを思ってるわ、私も愛してるわよ」
「ありがとう・・・・お母さん。僕は・・・・戻ります」



「もうチュンソンお兄さんたら、急に来て突然帰るなんて」
「ごめんビョル」
「ずっとお父さんを独り占めしてたんだから」
「ビョル、もしかしてやきもちを焼いてるの」

チュンソンがビョルの頬に軽いキスをして微笑んだ。

「もう、お兄さんたら・・・ここはフランスじゃないのよ」
ビョルが顔を赤くした。
「ビョル好きな人はいないのか」
チュンソンがビョルの顔を覗き込んだ。
「もう知らない・・・・・」
ビョルが真っ赤になった。


チュンソンが門扉に手を掛けた時、タクシーが止まった。
ドアが開き、中からユソンと美久が降り立った。


「兄さん!!美久さん!」
チュンソンの声にビョルが飛び上がった。
「ユソンお兄さん!」
ビョルが駈けだしユソンにしがみついた。
「こらビョル、苦しいよ」
ユソンが笑いながらビョルを抱きしめた。
「ユソン、美久さんどうしたの。来るって言ってた?」
ユジンが驚いていた。
「いいえ、お父さんからの電話をもらったら来たくなっちゃって・・・・、
 チュンソンも来てるって言ってたからね。でも、チュンソン帰るところだったのか」
「ええ、後はお願いしますね。兄さん」
チュンソンがユソンと美久を見つめた。
「ああ・・」「ええ・・・」
ユソンと美久が頷いた。



僕は君の元に・・・ジェニファー・・会いたい・・・・・・・・



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 35


「逃亡者め、やっとご帰還か」アランの鋭い言葉に俯いた。
「迎えに来てくれたんですか」叱られた子どものようにチュンソンが呟いた。
「来て欲しかったんだろ、だから仁川空港から連絡をくれたんだろう」
「・・・・・・はい」


運ばれてきたコーヒーを前に沈黙を破ったのはアランだった。
「偶然だ、彼が入院していたのを知ったのは・・・」


どんな時間になってもジェニファーが帰る時にはフランソアが現れた。
帰宅が未明になる締め切り日にもやはり待っていた。
アランも度々寄り添うフランソアとジェニファーを目にしていた。
そんなフランソアがいつの間にか消えていた。



ーアラン、僕の患者が描いた絵を見に来ないか。多分君の好みのはずだー

ホスピスの院長室に飾られた絵は、ハーバート・ドレイパーの「The Gates of Dawn」を彷彿させた。

ーああ確かに僕好みだー
ーだろう、君はいつも美しいものに囲まれているからなー

友人のからかいを交わしながら、紹介されたのが彼フランソアだった。

ー彼の病気は何なんだー
ーいくら君でも言えないよ。患者のプライバシーだー
ー・・・・ここはホスピスだろ・・・・・・ー
ーああ、直る見込みがないことだけは確かだなー
ー彼に面会の人は来るのかー
ーいや誰も、両親にさえ知らせていないはずだー
ーそんなことが許されるのかー
ーすべては彼自身に任されているんだ。我々が口を挟むことではないからなー



「チュンソンお前がホスピスにジェニファーを置いていった後、彼女は一度アパートに戻ったんだ。
 一晩待ってもお前は戻ってこなかった。
 その日からジェニファーはホスピスに泊まり込んでいるんだ」
「・・・・フランソアにはジェニファーが必要だったはずだ」
「思い上がるなチュンソン」
「・・・・・」
「本当の人の気持ちなんか分かるものか、自己陶酔しているだけじゃないのか」
「・・・父も同じことを言っていた・・・」
「・・・・・このままジェニファーの元に行っていいんだな」
「アラン・・・連れて行ってくれ・・・・・ありがとう・・アラン」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 36


酸素マスクを付けベットに横たわったフランソアの指が、ベットに俯したジェニファーの輝く髪を梳いていた。
ドアを開けその姿を目にしたチュンソンの胸は締め付けられた。



「間に合わないと思ったぞ」
酸素マスクを外しながらフランソアが喉の奥から絞り出すような声を上げた。

その声にジェニファーが身を起こした。
「・・・・・チュンソン・・」

「・・・・・ジェ・・ニファー・・・すまない」
「チュンソン・・・」

「全く勝手だよね・・・ジェニファー・・少しやつれたね・・」
ジェニファーの目がチュンソンから泳ぎ、フランソアの顔を探し当てた。

チュンソンはそんなジェニファーとフランソアにやり場のない嫉妬を感じた。

「ジェニファー、チュンソンと話がある外してくれ」



大きく肩で息を吸い、軽く目を閉じたフランソアが話し出した。
「チュンソン・・・・・何かが変わったのか?」
「・・・・・」
「何も変わらないだろう・・ここの時間は止まったままだチュンソン。お前は未来に行き今、過去に戻ってきた、そして現実と向き合うんだ」
「フランソアあの日、君にはジェニファーが必要だと思った」
「ああ・・・・感謝している。でもチュンソンお前には必要なかったのか?」
「・・・苦しかった・・ジェニファーがお前の側にいると考えただけで血が逆流する思いだった」


フランソアが酸素マスクを手繰り寄せ口に当てた。
生きている証の音が沈黙を破っていた。


「愛してる」
「そうか」マスクの中で声がくぐもった。


「チュンソン・・」フランソアが酸素マスクを外し、思いがけない力強い声が発せられた。
そして目にもあの強引な頃の輝きがあった。

「ジェニファーが引き取られて来た時思ったよ、天使が来たと・・・。俺はあいつを守るために生きてきたんだ。
 チュンソン・・・俺の役目は終わったんだな・・・」
フランソアの目が何かを堪え宙を睨んでいた。
「フランソア・・・」
チュンソンは震える声を呑み込んだ。


「花嫁の父の気分だな」
いつもの皮肉たっぷりの口調でフランソアが呟いた。
「跪いて許しを請わなくてはならないのか」
チュンソンもあの頃に戻って容赦なく切り込んだ。
「そうだな、お前のそんな姿を見たいものだな」
フランソアが笑った。その声に吊られチュンソンも笑い声を上げた。
ふたりの笑い声が次第に嗚咽に変わっていた。


「チュンソン、ジェニファーがやつれているのは赤ん坊のせいだ・・」


空を茜色に染めることの出来ない初夏の太陽の美しさとジェニファーの美しさを
一生忘れることはないだろう。
そう思いながらチュンソンはジェニファーをそっと後ろから抱きしめた。

夕方のまだ冷たい風がふたりを擦り抜けた。

「ジェニファー愛してる」
チュンソンの腕の中でジェニファーは張り詰めていた力を抜いた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 37


ジェニファーは窓辺にもたれた。パリの街が霧におおわれていた。
チュンソンの腕が彼女の腰にまわされ、みぞおちあたりに指を組んだ。
ジェニファーのしなやかな体がチュンソンにもたれかかった。


チュンソンは彼女を手放す決意をした自分の心に悪態を吐き、彼女への想いが切ないくらいわき上がるのを感じた。
いくら抱きしめても抱きしめ足りないようなもどかしい気持ちを腕に込めた。
「チュンソン苦しいわ」
ジェニファーが囁いた。
最後には呆れ「私はどこにも行かないのよチュンソン」
その声にチュンソンが抱えていた後ろめたさが、涙となって解けていった。


「泣き虫なチュンソン」
「ああ、母に似てるんだ。楽しくても嬉しくても・・・・・」
「お母様に紹介してくださる・・・」
「ああ・・よろこんで・・」


「愛してる」チュンソンがそっと言った。
「君をフランソアの元に送り届けた後、ここに戻ったんだ。でも君がいないこの部屋は僕には寒すぎた。・・・・・・・この3週間君を思わない日は一日たりとてなかった。ジェニファー・・・愛してる。僕を君の夫にしてくれないか、そして父親に・・・。結婚してくれ」
ジェニファーは頷いた。
チュンソンはジェニファーの手をとり、手のひらにキスをした。



大きく肩で息を吸い込むフランソア。
意識が時折混濁する。
額に滲む汗をジェニファーが優しくふき取る。

「・・・・アイスクリームがたべたいな・・・・」
「待っててね。チュンソンお願いね」
「ああ大丈夫だよ」

胸を大きく上下させ激しい息づかいだけが部屋に響く。
「・・・チュンソン・・・」
フランソアが途切れながら言葉を続ける。
「画商のお前から見てここにある絵がどうだ・・・・」
「・・・・・」
「・・・やはり商売にはならないか・・・」
「いや、この絵をどうやったら引き取らせてもらえるかと考えていたんだ。フランソア、こんなにも表現が変わったなんて思いもしなかった。君は魅力的だが人の心を暗くするような画風だったのに・・・・」
「思いがけないほど変わったか・・・・これが本来の俺だったのかも知れない・・・」
「ラファエル前派、この手の作品は昔も今も人気があるんだ。確固たる技術がなくては受け入れられないが、君の絵は間違いなく商品として人気が出るだろうな」
「画商カン ジュンソンの誉め言葉か・・やはりうれしいな・・・・」
「このすべてを引き取らせてくれるかフランソア」
「・・・あぁ・・・ただし条件がある・・・」


フランソアは目を瞑り大きく喘いだ。


チュンソンは廊下に向かい叫んだ「ジェニファー早く」
ドアの外にアイスクリームのカップが転がった。



ーフランソア ベールの作品はすべてカン ジュンソンに委託する。その収益はジェニファーとチュンソンの間に生まれてくる子どもに受け取る権利があるものとする・・・・・・・・・・・ー



「・・・・フランソア・・君ってやつは・・・・」
チュンソンは黒い土を見つめているジェニファーを抱き寄せた。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 38


「理事何があったんです。チュンソンが帰ったと思ったら今度はユソンと美久さんだ」

キム次長、今ではマルシアンの代表理事が心配げに尋ねた。

「先輩、僕がここに赴任したときのチョさんを覚えてますか」
「チョさん?誰?綺麗な人だったら覚えているはずなんだけど・・・」

悪戯っぽく口角を少し上げてウインクをした。

「相変わらずですね先輩・・・・・・今回の会議はオブザーバーで良いですよね」
「悪いな休暇で来てるのに、ちょっと気になることがあってね」
「マルシアンの代表理事のお願いを聞かなくっちゃ後々大変だからな・・」



「会議はいつもあんな風なんですか」

マルシアンはセウングループの子会社としてではなく、韓国国内を一手に取りまとめる立場に変化していた。
そのマルシアンがソウルの郊外に大々的なショッピングモールと高層住宅のハイブリットを計画し、官庁の許可は下りていたが、古くからそこにすむ人達との交渉が暗礁に乗り上げていた。
キム次長は強硬派と穏健派の対立の突破口と、その根底にある問題点を見つけようとチュンサンの会議への出席を依頼していた。

「難しいですね・・・・」



チュンサンが帰宅するとリビングからユソン達の弾ける笑い声が響いた。
「ユジン、どなたか来てるのか」
「ええ、ユソンと美久さんの同級生よ。偶然会ったんですって」

「アッ!・・・・・・・・・イ ミニヨン理事・・・・」
「やぁ君は確かマルシアンの・・・」
「パク ドンファンです・・・・」
チュンサンを見て固まったドンファンにユソンが笑いながら
「僕の父のカン ジュンサン、君にはイ ミニヨンと言った方が通りがいいのか」


ユソンと美久がスファを診察して出てきた時、ドンファンが立ち退きの件でキム家を訪ねてきたのであった。

「キムさんはあそこの人達に信頼されてますから」

スファの義理の息子キムは腕のいい電気技師だが、妥協を許さない頑固さが仇になって仕事の依頼が減っていた。
その頃突然のスファの失明。
キムは決して豊かではない、ましてや自分たち子どもがふたりもいるのところへ嫁いでくれた優しく綺麗なスファ、陰日向なく育ててくれたスファには感謝していた。
そのスファの目の治療のために僅かな蓄えも底をついていた。
立ち退き料でソウルから遠く離れたならば家も持つことが出来たが、子ども達の学校のことを考えるとそうもいかなかった。


「キムさんの事情を知っていて、自分たちが同意したらキムさんが困ると近所の方も立ち退きに渋ってるんです。まったくお偉方は詳しいことを知ろうともしないんだから。
アッ!!すみません・・・・・」

「ドンファン、君は確か営業部門ではなく設計部門なんだろう」
ユソンが不思議そうに尋ねた。

「ああ、だがマルシアンは留学経験のないものには鼻も引っかけないんだ」
「設計は学歴じゃなくて実力じゃないのお父さん」
「・・・・・・そのはずだが、社内コンぺはやってるんだろ」
「・・・・」

チュンサンはキム次長の ー気になることー を理解した。
ー先輩の悪い癖だな僕には肝心なことは言わないって言ってるくせにー


数日後マルシアン社内に告知が張り出された。
[イ ミニヨン主催コンペ開催決定:エントリー開始]


「ユソン、美久どうだった」
「お父さん結論を急がないでください」

ユソンが笑いながらチュンサンの言葉を遮った。

「ユソン!お父様に失礼だわ、こんなにお父様が心配してるのに笑うなんて」
「だって美久、お父さんってスファさんの前に行くと全く子どもみたいなんだぞ」
「そう、私も初めて見たわチュンサンのあどけない顔」

ユジンがチュンサンの手に手を重ね、下を向いたチュンサンの顔を覗き込んだ。
照れくさそうにユジンの手を軽く叩いてチュンサンはユソンの先を急がせた。

「・・で?」
「はい、以前に検査されたとおり外傷はありませんよ、でも、これから先は美久の専門なので」
「お父様のお考えの通りだと思います。スファさんの心の壁を取り除かなくてはなりません。時間が掛かると思います。年齢もいってますので・・・」

美久の言葉にしばらく考えていたチュンサンが、「今の僕に出来ることから考えるんだな・・・・」
「あなたはもう決めてるんじゃないのかしら」
ユジンがチュンサンに微笑んだ。

「ユジン・・・・・・」

チュンサンの笑顔にユジンは繋いだ手に力を入れた。

「ユジン、君には何も隠せないな。僕の心が指先から流れていってるんだな」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 39


躊躇いがちにチュンサンの書斎のドアをノックする音がした。

「どうぞ」
「お父様今よろしいですか」
「美久、どうしたの」
「ユソンには提案するのもダメだって言われたのですが・・・・」


チュンサンは親指を頬に、長い人差し指を眉間に当てホォッとため息を付いた。


「催眠療法のことだろ・・・・・」
「ご存じでしたか・・・・・」
「ユソンがなぜ反対するのか言ったかい」
「・・・ええ・・・」


チュンサンの手が口元を覆った。
美久は漠然と ー なんて綺麗な手なんだろう ー と見入っていた。


「たぶんスファも受け入れないだろうな・・・・」

チュンサンの声に美久はハッとして手から目を逸らした。

「・・・そうですか・・・・」
「美久、ありがとう。医師として君が提案することだ、きっと勝算があってのことだね。でもそれだけは僕には受け入れられないんだ。
たと・え・・・・・・・・・」

チュンサンの声が途切れた。

「お父様・・・・・」
「・・・・たとえ・・・・・いや、スファの心の鎧はゆっくりと脱がせてやりたいんだ。それがスファと神との約束であったとしてもね・・・」

チュンサンの瞼が灯りに光った。

「ユソンの言うとおりでした、お父様愚かな申し出でした・・・・医師としてではなくあなたの娘としてスファさんの回復を信じてます」
「・・・・・ありがとう美久」



ユジンが書斎のドアを開けたとき、闇に溶け込んだチュンサンがいた。
そっと差し出された手を驚きも戸惑いもなくチュンサンが掴んだ。

「あの時、君のこの温もりだけが僕の世界だった」
「私の世界はこの手の中だけよチュンサン」

「・・・・・ユジン」
「私たちの今のこの幸福をスファさんに分けてあげましょチュンサン」

「ユジン・・・」
「チュンサンあなたは大きな魔法の杖を持ってるのよ・・・・・・・・・」
「フフフ・・・魔法の杖ねユジン・・・いつから知ってたんだ・・・」
「ずっと前から・・・・・」


ユジンの頬がチュンサンの肩に、チュンサンの手がユジンの腰を引き寄せた。
どこかしら明るい夜の空がふたりを被っていた。



「残りの休暇は日本に寄って行くのね」
ユジンが美久に念を押した。
「お母様すみません」美久が頭を下げた。
「何言ってるのせっかくの休暇じゃない、日本のご両親もお喜びになるわ」
「お父さんなんの役にも立たなかったね」
「心から信頼できる医者がいるってことが僕には嬉しかったよ」


空港に向かう車から振り向き美久は呟いた。
「手を繋いでるのね・・・・・・・・・」
「んん?なに美久」

門の前に佇んだふたりがだんだん小さくなる。

「お父様とお母様よ」
「そう、いつもそうだった・・・・・・・・・・」
「わかったわ、ユソンがいつも手を繋ぐのが・・・・当たり前なのね」

ユソンと美久の手が重なった。
温もりが胸の鼓動を伝え、互いを思う心も手から溢れ出る。

ーお母さん、いつか思っていたあなた達のような夫婦に僕たちは成れるのかもしれないー

ユソンは見えなくなった彼方を振り返った。



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 40


「先輩申し訳ありません、僕の方が行かなくてはならないのに」
「本社の代表理事が顔出すと社内が落ち着きませんからね」

キム次長が冷やかしとも本気ともつかない顔でニヤリとした。

「で、理事どうすることにしたんです、もう決めたんでしょ」

チュンサンはお茶を出しているユジンに声を掛けた。
「ねえユジン、キム班長は頑固だったが仕事は良かったよね」
「キム班長・・・・・懐かしいわねチュンサン」
「でも理事、彼には泣かされましたよ」
「でもいい仕事をしてましたよね先輩」

「・・・・・・そういうことですか・・・・わかりましたよ。私だって考えていないわけではありませんよ。・・あの・・そうやってふたりで私をじっと見ないでくださいよ」

3人は顔を見合わせ笑い出した。

「はぁ〜大変なのは私ですよ理事、わかってるんですか。」
「先輩だからやれるんじゃないですか」
「そうやってすぐに煽てるんだから、全く昔とちっとも変わっちゃいない・・・」

キム次長のぼやきを遮るようにユジンが立ち上がった。

「さて、お茶じゃなくてお酒がいいようですねキム次長さん」
頭を振りながらキム次長が笑った。
「かなわないなユジンさんには・・・・・」



「で、スファさんの目は治りそうなんですか」
「・・わからない、でもスファの心の負担を取り去ってやることから始めた方がいいだろうって」
「ユソン君がそう言ったんですか」
「いや、美久だよ。彼女の方がその専門なんだ」


「キムさんの仕事は明日にも決まる、するとあとは立ち退き先だな」
チュンサンの笑いをかみ殺した顔に目をやったキム次長が呆れたような声を出した。
「もうそれも決まってるんじゃないよなミニョン」




「ドンファン、君の説得には耳を傾けてくれたんだろ」
「はい」
「それだけ君が信頼されているということだよ、ご苦労だったね。晩ご飯はまだなんだろ食べて行きなさい」
「いえ、このところ毎日ですから・・・・・」
チュンサンが悪戯っぽく微笑んで
「断ったら僕が困るよ。ユジンはともかくビョルに何を言われるか・・・ね」
ドンファンの顔が赤らんだのをチュンサンは見逃さなかった。




「おばあちゃん気を付けて、勝手が分かるまでちょっと大変でしょうけど」
「私のことは気にしなくてもいいよ、何とかなるから。でも住み込みなんだろ大丈夫かい?」
「住み込みたって、庭続きの一軒家だから気兼ねはいらないし、私の仕事だって大したことがないんですよ」
「しかし夢みたいな話だね、いいのかね。」
「旦那様と奥様はいつもアメリカに行ってて、普段はお嬢様ひとりなんだって。ひとりで置いておくのは心配だし、掃除や食事のことを面倒みて欲しいって。こんないい話は他にはないですよ」
「・・・・そうね・・」

スファが少し考え込んでいた。

「お母さん何を考えてるんですか」

荷物を運んできたキムがスファに声を掛けた。
「ああお前かい、ここの旦那様はなんとおっしゃるんだい」
「今俺が働いてる会社のアメリカ本社の社長でイ ミニョン様って言うんだ、それが何かしたのか」
「・・・・・・・・いえ・・・・・・・・・・・」


日が傾きかけた部屋でスファは夢を見ていた。
ー スファ!ただいま。あのねきょうね学校でね・・・・ー

ハッと目が覚めたスファの耳に庭越しの声が聞こえてきた。
ー ただいま!ユジン。・・・・・・ねえ・・引越終わったのかな・・・・・・ー

「・・・・チュンサンさま、お幸せですね・・・愛してますよチュンサンさま・・・」



********
「To the future 」 − 回転木馬 − 41


カランカランカラン・・・・・・・・・

大きく鐘が鳴り響き教会のドアが開け放たれた。
ライスシャワーと花びらがふたりを祝福した。

愛しげな眼差しがジェニファーの顔に留まり「君に夢中だよ。愛してる、永遠に」
「私も同じくらい愛してるわ・・チュンソン」
愛に溢れたまなざしを交わしながら唇が重ねられた。

歓声も笑い声もふたりには届かなかった。




「急な話なのね」ユジンが眉をひそめた。
韓国での長すぎた休暇もそろそろ終わり、アメリカに戻る準備に取りかかっていた時だった。
「チュンサン知ってたの?この間ずっと話し込んでいたじゃない。知らなかったの」
「・・・・・そうか・・決めたんだな・・・」
「ねえチュンサンたら・・・」ユジンが首を傾けてチュンサンの顔を覗き込んだ。
チュンサンはユジンの肩を引き寄せ髪に唇を寄せ囁いた「きっと幸せになるよ、僕たちのようにね」
ソファから立ち上がりそっとリビングのドアを閉めたビョルに、ふたりは気が付かなかった。




四週間後、チュンソンはジェニファーと結婚した。
チェリンとアランが式の準備を買って出た。モデルとして人気者のチュンソンの結婚は瞬く間に広がった。25歳の早すぎる結婚に女性達のため息が洩れた。

花嫁衣装はもとより新郎の衣装もチェリンの指示で調えられた。
晴れの日、花婿から贈られた星を象ったダイヤのティアラと長いベールをまとったジェニファーは目が覚めるほど美しかった。
花嫁の付き添いは、オレンジのドレスに身を包んだハイディが務め、新郎の付添人はユソンが引き受けた。

チュンソンはユソンとともに祭壇に立ち、ジェニファーがフランソアの父の腕に手を掛けゆっくり歩いてくるのをじっと見守っていた。
祭壇の前に立つチュンソンの姿を見たときから、ジェニファーの胸はときめいた。
自分のためにだけ正装したチュンソンはこれまで以上に魅力に溢れていた。
チュンソンの瞳には幸せと誇らしげな称賛と愛に包まれていた。



披露宴パーティのダンスフロアに滑り出たふたりは全ての出席者の祝福を一身に浴び踊っていた。
主役がダンスフロアから去るとそれぞれがダンスフロアで踊り出した。



その時、思いがけずミンソンがジェニファーを横取りした。
チュンソンを若々しくした顔は、父チュンサンを彷彿させた。
チュンソンのささやかな抵抗もミンソンは軽くかわして、陽気にジェニファーを抱えて踊り出していた。

その姿に呆気にとられチュンソン、チュンサン、ユソン、ユジン、ビョル、チェリンが見つめていた。

「たいしたものね、チュンソン以上だわ」チェリンが呟いた。
「いや違うね、あれはイ ミニョンだよ」シャンパングラスを持ちながら後ろからキム次長がいった。
「・・・イ ミニヨンね・・・確かにそうだわ」チェリンが面白そうに答えた。
「まさか、僕じゃないよ」慌てふためいた声をチュンサンが出した。
「まさしく昔の自信満々の頃のミニョンだよ」確信を持った声でキム次長が言い切った。
「先輩・・・」
「情けない声を出すなよミニョン、ねぇユジンさん」戸惑うユジンにキム次長がウインクをした。
ユジンは笑い出した。「イ ミニヨンを今見ることが出来るなんてなんて幸せなんでしょねチュンサン」
チュンサンはユジンのにこやかな笑顔に落ち付きを取り戻した。
「・・・・あのシャイだったミンソンお兄さんが・・・・なんで・・・・」ビョルのつぶやきが周りの笑い声に消えていった。

美しい花嫁ジェニファーの手が他の誰かに捕まえられる前に、チュンソンがミンソンから引き離し抱き寄せた。

ミンソンはわざと非難がましくため息をついた。「からかい甲斐がありそうだね」
チュンサンの目が微かに掠められた。ドッと笑い声が上がり華やかな披露宴が続いた。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 42


「ユジン!チュンサン!こっちよ」チェリンの声が聞こえた。
「チェリン!準備で忙しいのに迎えに来てくれたの・・・悪いわ」
「もう相変わらずねユジン、チュンサン元気だった。アラン カートを押してよ」

いつもと変わらぬチェリンにユジンとチュンサンは顔を見合わせ微笑んだ。

「全く変わらないでしょチェリンは」アランが苦笑していた。
「あら、アランどういう意味なの」腕を組んでチェリンがアランを睨んだ。

アランはそっと身をかがめ、チェリンの頬にキスをした。
「君の美しさが色褪せてないってことだよ」
すぐに機嫌を直したチェリンにユジンとチュンサンは下を向いて笑った。


「チェリンおばさん、いつもお若いですね」
「・・・おばさん・って・・」声の方を振り返ったチェリンは不思議な感覚に捉えられた。


この光景・・・・前にも見たことがある・・・・・、あぁ・・・チュンソンと会ったときだわ。


「・・・ミンソン?ミンソンなの」チェリンの声が少し上擦ったことにアランは気が付いた。
「チェリンおばさん誰だと思ったの?イ ミニヨン?」微かに声に皮肉っぽい響きがあった。

「ミンソン君、確か初めてだね」
「初めましてカン ミンソンです」

アランにはさっきの声の響きが聞き違いと思えるほど快活にミンソンがあいさつをした。



「ミンソン、悪いんだがおばさんって言うのはやめてくれないか、もう機嫌が悪くなるんだ、ね。」アランがささやいた。

チュンサンたちと話しているチェリンに目を向け「ええ、分かりました」とミンソンが悪戯っぽく微笑んだ。

同じ日、ユソンと美久が別の便でアメリカからキム次長に付き添われたビョルがソウルから到着した。



「チェリン、アランありがとうふたりには感謝してるよ」
チュンソンが食事が始まる前にそう切り出した。
「僕たちからも本当にありがとう」
チュンサンとユジンも改まって頭を下げた。

「あら、楽しかったのよねアラン。まるで自分たちの子どもたちの結婚式の準備のようだもの」
「あれ?自分たちの結婚式のようだねって夕べ言ってなかったのか」
「うん、もう・・・・いじわるねアラン・・・」

チェリンのばつの悪そうな笑顔にドッと笑いが起きた。



「では、明日のチュンソンの素晴らしい花婿姿に期待を込めて乾杯しますか」
キム次長が朗らかに盃を掲げた。



「今夜、美しいジェニファーさんはどこなんだチュンソン?」ほろ酔い気分のキム次長が尋ねた。
「育ててくれたフランソアの両親と教会近くのホテルにいます」
「羨ましいなチュンソン、モデルといっても通用するようなあんな綺麗な嫁さんをもらうなんて」
「キム次長さんもう酔っぱらったの」ユソンが笑った。
「・・・・いや、私も親の気分だよ・・・・・」
ほのぼのとした暖かみがテーブルに広がった。



「ところでユジン、結婚式のことは私たちも楽しんでるからいいんだけど、あの新居はどうやって見つけたの。もうこのパリで見つけるなんて至難の業なのに」
「前からね、チュンソンがこっちであなたの仕事を始めた頃から考えていたのよ。きっとここに永住するんじゃないかって」ユジンがチュンサンに振り返った。

「ユジンがフランスに留学して頃から住宅事情が悪かっただろう、だから気長に探してもらっていたんだ。最もチュンソンは僕たちを当てにするタイプじゃないことは知っていたから、こっそりとね」
「だって全く親を当てにしないんですもの、寂しいわ。だから今回は無理矢理納得させたのよ」
ユジンとチュンサンが笑っていた。

「でもね、アランやっぱり凄いわよね。建築家の両親を持った幸せかしら」
「僕たちは引っ越しの時に見せてもらったんだよ、古い外観は見事に残して内部の設備は最新のものを入れてるんだよね」
「僕の仕事じゃないんだよ、リノベーションはユジンの得意とするところなんだ、ねユジン」


「そうそう思い出したわ・・・・あのスキー場もそうだったのよね。懐かしいわ」


チェリンの言葉にチュンサン、ユジン、キム次長そしてチェリンの胸に様々なものが去来した。


翌日パリは晴れ上がった。



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「To the future 」 − 回転木馬 − 43


「ここでチェリンに声を掛けられたんだ」
「・・・・・・ここなのね」
「ユジンが知りたいって言うから来たんだぞ・・・・」
「あら、感謝してるのよ。ここでミニョンがチェリンと出会ってくれたんですもの」
「なんか棘があるように聞こえるんだよね・・・・・」

クスクス笑うユジンの肩に腕を廻し、そっと引き寄せる。
「愛してるよ」チュンサンが囁いた。
「私も愛してるわ」ユジンの手がチュンサンの背中に回された。



「ねえユジン、僕は君を幸せに出来たのかな」
明るく笑いながらユジンは首を傾けた
「チュンサンどうしてそんなことを聞くの」
「チュンソンの結婚式の嬉しそうな顔を見てたら、僕たちの結婚って君にとって苦労の連続だったんだな・・・・・って」

ユジンの片方の口元が微かに上がった。

「・・・・怒ったろ。ユジン 君がその顔をするときは昔から怒ったときだよな」
「もうチュンサンったら・・・おかしなことを言うんだから・・・・」

見つめ合って微笑んだ。

「あなたの傍にいられることだけで幸せなのがわからないの」
「・・・わかっていても言葉で聞きたかったんだ ユジン」
「もうチュンサンったら・・・」




「まいったね、完全に僕らの存在を忘れてるぞ」ユソンの声が笑っていた。
「いつものことでしょう、ねぇ置いていきましょうよ」口を尖らせてビョルが美久の手を引っ張った。

「パリの恋人たちにも負けないわね、お母様たち」
「僕は両親に似たんだよ」
ジェニファーの頬を手を置き耳元に囁くチュンソンをビョルが顔を赤らめ見入っていた。

「ビョル、涎が出てるぞ」ミンソンの声にあわてて口元に手をやるビョルにみんなが笑った。
「もう、ミンソンお兄さんの意地悪・・・・」




木製の回転木馬、本当は見たことなんてないのにどこか懐かしい
[ぎぃー]
そんな音がするわけがないのに記憶の底から蘇る
[ジミーの呼び声]
あれは映画の中だったのかしら

内側と外側少しずつすれ違い、姿が見えなくなる
でも僕らは知っている
いつかはきっと会えるってことを


まわるまわる回転木馬



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「To the future 」 − 回転木馬 − エピローグ



チュンソンの指がジェニファーの髪、頬に触れた。彼の唇がやさしく、ゆっくりと
下りてきて、口づけをした。

「あれから5年だよ・・・・・・・」
「ねえチュンソン、私にはアッという間の5年だわ。甘やかしてくれるあなたの傍にいると時間は駆け足のようなものよ」ジェニファーはささやいた。

チュンソンは大きく息を吐きだし、切り出した。
「ジェニファー、この木婚式に僕は君に改めて誓うよ。君を愛し、敬い、慈しむことを・・・」

「チュンソン。私を泣かせないで」
ジェニファーの光を受けて変化する茶色い瞳が霞んでいた。


チュンソンとジェニファーは甘い魔法のなかに身を置いた。


ー 夫婦がやっと1本の木のように一体になる ー
気持ちのすれ違いがあったり、習慣の違いに戸惑ったり、やっと5年なのかもしれない。
ー 僕たちはいつかチュンサンとユジンのような夫婦になるのだろうか。ー
ジェニファーを胸に抱き、眠りに引き込まれながらチュンソンは思っていた。




「チュンソン、あの日あなたが言っていた ー悲しいことー は消えたの」
「いいや、父の悲しみは母によって癒されているよ。でも、スファさんのことや韓国のおじいさまのこと、そして・・・でももしかしたらそれは僕の思いこみなのかもしれない」
「ねぇチュンソン、あなたにもし悲しいことがあったら私はあなたを慰めることが出来るのかしら」
「ジェニファー・・・・・・・僕は信じてることがあるんだそれは ー愛と奇跡の力ー だよ」
「・・・・ー愛と奇跡の力ー・・・・」ジェニファーが呟いた。

チュンソンの腕がジェニファーを包み込んだ。

「たとえ今は見えなくともすぐそこにあることだけは知ってるんだ、きっと手を振ってるよ、ほらフランソアのようにね」


チュンソンとジェニファーの前を満面の笑みを浮かべ、白い馬に座り手を振りながらフランソアが通り過ぎた。


まわるまわる回転木馬



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