「To the future 」 − 回転木馬 − プロローグ
「ママ・・ママ、ママ・・・・」
「フランソア、パパがいるよ」
優しい低い声と温かい手が部屋全体を包み込んだ。
「パパ、ママは」
「ママはまだお仕事だよ、パパが眠るまでここにいるよ」
穏やかな寝息が聞こえたと同じ時、玄関の防犯装置が解除された音が聞こえた。
彼が2階の踊り場から玄関ホールを見下ろすと、夜の静けさに響くヒールの足音を忍ばせながら急ぎ足で階段を上がろうとしているジェニファーがいた。
「遅くなってしまってごめんなさいね、フランソアは・・・」
「もう眠ったよ、それよりジェニファー、かなり疲れているようだけど」
「ええ、そうよチュンソン」
「バスを使っておいで、何か飲み物を用意しておくから」
ジェニファーはチュンソンの目に影があることに気づいた。
いつも何か楽しいことをみつけ輝きを放っているチュンソンにしては珍しいことだった。
不吉な予感が胸をよぎりフランソアのベットに屈み込んでから、ジェニファーは慌ただしくバスを使った。
髪を拭きながら居間に入ると、ワイングラスをぼんやり見つめているチュンソンがいた。
「チュンソン、遅くなってごめんなさいね。怒ってるの」
「ジェニファー、ごめん、君を怒ってるんじゃないんだよ。さっきフランソアを見ていて思い出したことがあったんだ」
「悲しいことなの、そんな目をしてるけど」
「君は何もかもお見通しだな、そうだよ悲しいことだよ、いや僕じゃない父のことを考えていたんだ」
「お父様のこと、韓国にいらっしゃる」
「ああ、僕の父カン ジュンサンのことだよ」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 1
「ママ、ママ・・・・・ママ・・」
暗闇に泣きじゃくる子どもの声が微かに響いた。
冷たい空気が部屋を包んでいる。
「チュンサンぼっちゃま、スファはここにいますよ」
優しい温かな声が、腕が身体を覆った。
「スファ、ママはどこ」
「・・・・出掛けられましたよ」
「ママ、ママ・・・・」
スファの手がチュンサンの背中を軽く叩きながら、低い声で子守歌を歌った。
「・・ママ・・・・」
頬を伝わる涙が乾かないうちに穏やかな寝息が聞こえた。
スファがチュンサンの涙を拭うと呟いた。
「チュンサンさま、お母様は2カ月も留守をされるのですよ」
チュンサンの顔を見下ろして、スファは溜息とも付かぬ吐息をもらすと首を振りながら
部屋のドアをそっと閉めた。
===============
「お母さん、お願いします。このチャンスを逃したら私は世界に出ることはもう叶わないかも知れないんです」
「そんな恥曝しなことが出来ますか」
「ほんの2カ月でいいんです、チュンサンを預かってもらえませんか」
「父親のいない子をこのカン家で引き取ることは出来ません」
「引き取ってといっているわけではないのです。ほんの2カ月だけです」
「この話は聞かなかったことにします。お父様には伝えませんよ」
「・・・お母さん・・・・わかりました。もうお頼みはしません」
===============
「ねえ、スファ。ママはいつ帰ってくるの」
「・・・・チュンサンぼっちゃまがお利口さんにしていたらね」
チュンサンの目が喜びで輝いていた。
「スファ、僕お利口さんにするよ。幼稚園も行くよ。ピアノだって練習するんだ」
うっかり希望を与えてしまったことにスファは戸惑いを覚えた。
ーだってまだ5歳の子どもよ、なんて言ったらいいのー
「スファ、牛乳も飲むよ。にんじんも食べるよ、そしたらママ、早く帰ってくるよね」
誇らしげにおしゃべりを続けるチュンサンを見ながら、スファはチュンサンを引き受けたことを悔やみだしていた。
「チュンサンぼっちゃま、幼稚園に遅れますよ」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 2
「ママ、ママ・・・・」
「フランソア、おはよう。ぐっすり眠れたの」
フランソアは見つめているジェニファーの首を両手でしっかり抱きしめた。
「あれ、パパにはおはようはないのフランソア」
チュンソンの優しい声が聞こえた。
「パパ!」
ベットから跳ね起きるとチュンソンの胸に飛び込んだ。
「ねえ、どうしたの、どうして私が起きるのがわかったの」
チュンソンとジェニファーが顔を見合わせて笑った。
「ずっと見てたんだよ、可愛いお姫様の寝顔をね」
「ねえ、ママきょう幼稚園にあの白いブラウス着てもいいでしょ」
「あら、あれは特別なときだけじゃなかったの」
「きょうは特別なの」
「どうして、教えて」
「あのね・・・・パパ、レディが着替えるのよ」
フランソアの光を受けて変化する茶色い瞳、ジェニファーと同じ瞳をチュンソンに向けた。
肩に流れる黒い髪はチュンソンの母ユジンのようにオリエンタルの美しさを描いている。
チュンソンが大きく肩を窄めた。
「じゃあ、僕はオムレツを作ってようか」
フランソアの目が輝いた。
「パパ、ケチャップをいっぱいね」
チュンソンの目がフランソアの手にしているブラウスを見ながら
「オムレツを食べてから着替えた方がいいんじゃないか、ケチャップが付いちゃうぞ」
「わたし、赤ちゃんじゃないもん。こぼしたりしないわ」
チュンソンが軽やかな笑い声を立てて階段を下りていった。
白いブラウスを見つめていたフランソアが小声で
「ママ、パパのオムレツを食べてから着替えてもいい」
「そうね、ママもその意見に賛成よ」
「パパ、ケチャップで絵を描くのはわたしにまかせて!」
階段を転げ落ちるかのように、フランソアは駆けていった。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 3
「チュンサン、風邪ひいてない。ちゃんとスファのいうことを聞いてるの」
「ママ、僕お利口にしてるよ。帰ってきて」
「・・・・チュンサン・・・スファと変わって」
「ママ・・・・・」
ーママ、僕のこと嫌いなんだー
「チュンサン、お前ママに捨てられたんだって。うちのママがいってたぞ」
「うちのママもいってた」
砂場でトンネルを掘ってたチュンサンの手からシャベルが滑り落ちた。
「スファ、僕捨てられたの・・・」
幼稚園の帰り道、ポツンとチュンサンが言った。
「誰がそんなことを言ったのです。奥様はピアニストとして外国に行ってるんですよ」
「そうだよね、そうだよね」
スファの手を強く握って、チュンサンの声が明るくなった。
「さあ、チュンサンぼっちゃま、お好きなものを作ってあげますよ、何がいいですか」
「僕、スファの作るものなんでも好きだよ」
「でも、きょうは一番好きなものにしましょうね」
「じゃね、アイスクリーム」
「まあ・・・」
スファがくすくす笑った。スファの笑い声に誘われるようにチュンサンも微笑んだ。
何故だろう、お前に知っていてもらいたかったんだ。
ユソンでもミンソンでもビョルでもなくチュンソンお前にだよ。
お母さんは知ってるの
大体はね、でもそんなに詳しく話してはいないんだ。
ユジンならわかってくれる、でも彼女の心を悲しくさせたくない。
だからといってお前に話すのもおかしな話だが。
いや僕も聞いておきたかったんです。
何故お前なのか
何故僕なのですか
チュンソン、お前がきっとあの時までのカン ジュンサンに似ているからなのかな
あの時
そうあの時僕
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 4
僕の心を父チュンサンは知っていた
あの幾夜にも渡ったあの物語
あれは確かにチュンサンのお話
「スファ、お釣りが違うよ」
「えっ!」店先で渡された手のひらのお金をスファが数える。
「おじさん、足りないわ」
「なんだって、間違うわけがない」
「ほら、見てよ450ウオンなければいけないのよ、430ウオンじゃない」
「・・・ほらよ・・なんてガキだ」
「チュンサンぼっちゃますごいですね、よくお分かりになりましたね」
「簡単さ、僕おもしろいんだよ。数字を足したりええっと・・・」
「引いたりですか」
「そう、足したり引いたりがね」
スファはチュンサンが他の子と何処か違うことに気付いていた。
幼い子どもなのに感情を押し隠している姿
なにか新しいことをしようとするとき、慎重に手を伸ばし、確実に身につけいく賢さそして観察力の鋭さを。
そんなチュンサンを見るたび愛おしく、チュンサンを置いて長く家を空けているミヒを恨めしくさえ思えた。
「スファ、きょうママが帰ってくるんだよね」
「ええ、もしかしたらもうお家にいらっしゃるかもしれませんよ」
チュンサンは家が見えるとスファの手を振り払い駆けだした。
「ママ、ママ・・・」
「チュンサン・・・・大きな声を出さないで頭が痛いのよ」
「・・・ママ・・」
「スファ、ひと休みしたいからチュンサンを静かにさせて」
「・・・奥様・・」
「もう少し食べなくてはだめですよチュンサンぼっちゃま」
「もういい、ごちそうさま」
チュンサンはミヒの部屋に向けた目をスファに戻した。
「スファ・・・・・・」
チュンサンの目から涙がこぼれた。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 5
「パパ、いつもとは違う人がいるわ」
フランソアが立ち止まった。
「こんにちわ お嬢さん、似顔絵はいかがかな」
その男は声を掛けた。
フランソアはチュンソンに目を走らせた。
「いいよ、ゆっくり描いてもらったらいい」
フランソアが描いてもらっている間、チュンソンは並べられた男の絵を丁寧に見ていた。
そのうちの何枚かを食い入るように見つめていた。
「気に入ってもらえましたか」
男はチュンソンの視線を捉えた。
「描き終わったのかい、フランソアどうだい気に入ったかな」
チュンソンはお金を払いながら、フランソアが見つめる似顔絵に目を向けた。
「・・・・・・・」
フランソアもチュンソンも無言でその似顔絵に見入った。
「どうしてこんなふうに捉えたんだ、普通、似顔絵書きは綺麗にもしくは可愛く、
あるいは抽象的に、君の見本で置かれている絵はそんなふうに見えるんだが」
「いつもはね・・・・」
その男の切羽詰まったような目の中からチュンソンは答えをみつけた。
「・・・・カン ジュンソンだと知っていてだね」
顔を赤くして男は俯いた。
チュンソンは名刺を手渡しながら
「自信作を2・3点持って、事務所に来てくれ。名前は」
「サミエル バーンです」
「じゃあ、サミエル、できるだけ早くね」
「パパ、フランソアはこんな顔をしてるの。いろんな人に描いてもらってるけど・・・・
こんなの初めて・・・」
「どうかな、彼はそう思ったんじゃないのかな。この絵はパパが貰ってもいいかな」
「・・うん」
「ジェニファー、君はどう見る」
「この表情のフランソアのこと、それともこの描き手の腕前のこと」
「・・・・画家としての才能・・・・」
「あなたが今まで世に出してきた人達とは違うわ、でも成功するかどうかは賭ね」
「多分ね・・・・・大きな賭だろうな、やってみるだけの・・・」
チュンソンはその夜、フランソアの似顔絵から目を離さなかった。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 6
「人生が公平か不公平かなんて考えたことないだろう」
父チュンサンが呟くように言った。
「お父さんはそんなふうに考えていたの」
「幼いとき漠然とね。それが何の意味なのかわからなかったが」
「スファ、僕はどうしてカンっていうの」
「・・・・カン家のぼっちゃまですから」
「ママと同じ名字はいけないんだよ、だから僕と遊べないって」
「誰がそんなことを・・・・」
「いいんだ、スファ。僕、学校が楽しいから」
ミヒがピアニストとして世界の舞台に登場するようになって、5年の歳月が流れていた。
そのほとんどが旅から旅の日々。
彼女が自分でスケジュールを調節することはまだかなわなかった。
名前はコンクール優勝から知れ渡ってはいたが、カン家から離れ
強力なバックボーンを失った彼女は、単なるアジア人のピアニストにすぎなかった。
彼女自身[チュンサンを育てるため、子どものため]
その思いは「ピアニスト カン ミヒ」の成功と名声がなければ
決して手に入れることのできないものと信じていた。
ましてや、気軽に飛行機で世界を行き来できる時代でもなかった。
ミヒの母親として溢れんばかりの愛情を、彼女はどう表現したらよいのかわからない戸惑いの中にいた。
彼女自身、子どもに掛ける温かい言葉、抱擁を知らず育っていたのだった。
赤ん坊のときのチュンサンは抱きしめることができたが、
少年になった彼をどう触っていいのかさえも知らずにいた。
チュンサンの寂しさはミヒの悲しさでもあった。
「ママ、今度はいつまで・・・・・・・」
「チュンサン・・・・・勉強はしてるの、ピアノは弾いてる」
「うん・・・」
「お返事はハイでしょ、チュンサン」
「・・・・ハイ・・・・・ママ、僕のパパはどこにいるの・・・・」
「・・・・・・・・・チュンサン・・」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 7
ドアがノックされた。
「サミエル バーンさんがお見えです」
画廊に流れる音楽が微か漏れてきたと同時にドアが閉まった。
「よく尋ねてきてくれたね」
チュンソンが声を掛けた。
青白い顔をして立っていたサミエルがホッと肩で息をした。
ここを訪れる若者は皆多かれ少なかれ同じような気分になるらしい。
ー何故自分がここに今いるのだろうかー
ー成功の鍵をこのオーナーが握っているのかー
ー選ばれた者なのだろうかー
ーやっと、認められたのかー
サミエルの思惑を遮るようにチュンソンが言った。
「さあサミエル、君の自信作を見せてくれ」
他の若者と何の変わりもなくサミエルの顔が興奮を抑えきれず赤くなっていく。
「・・・はい」
「チュンソン、彼はどうしたの」
「彼、サミエルのことか・・・急ぎすぎたのかもしれないな」
ジェニファーの手がチュンソンの手を包んだ
「いつかわかってくれるときが来るわ」
サミエルが持ち込んだ作品は見る者をどこか不安に陥らせるようなものだった。
あの時、フランソアを描いた内面をも透視したかのような表現にはほど遠いものがあった。
あれは目の錯覚だったのだろうか。
落胆をあざやかな笑顔で隠し、持ち込んだ3枚の絵を買い取った。
「僕がいなくとも構わない、毎月一回画廊に顔を見せてくれないか。また気に入った絵が描けたら僕に見せてくれ」
チュンソンは数多くの若者を影で支えていた。
そのほとんどは彼の期待に添うことはなかったが、何人かは新進の画家として世界に羽ばたいていった。
チュンソンの鑑定の目は素晴らしかった。
彼の華やかな外観に惑わされ、正当に評価しなかった昔ながらの鑑定士達も認めざえなかった。
そんな確実な評価を得られた頃、各企業は他部門へ事業展開するという時流がやってきた、セウングループもその例外ではなかった。
そして、チュンソンもセウングループの一翼を担うことになった。
しかしチュンソンが決してグループに譲らないものがあった。
それは若者たちへの金銭的支援だった。
その資金はチュンソンの言う「アルバイト」で賄われていることを知るものは少なかった。
チェリンの誘いで始めたモデルの仕事は、チュンソンが好む好まざる以前に確実なオファを受けていた。
彼のモデルのマネージメントはあれ以来、ハイディが一手に引き受けていた。
彼女はチュンソンの意向を理解し、セウングループを刺激しないように注意をしながら、
彼のもう一つの部分を支えていた。
「チュンソン、来週からうちの雑誌の撮影に入るはずよね」
「ああ、ハイディから連絡があったよ」
「じゃあ来週、ハイディの都合のいい時に食事をしましょう」
「そうだな、いつも無理ばかり言ってることだし、君は時間がとれるのかい」
「ええ、あなたが微笑めば誰もが首を縦に振るわ・・」
ジェニファーが悪戯っぽく笑った。
チュンソンの軽やかな笑い声が響いた。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 8
寂しさは当たり前だったからこれが寂しさなんだとは思ってもいなかった。
でも、悲しさはほんの些細なことで感じるんだ。
自分がその人の前で半分くらい消えてしまったように、
そこにいるはずの自分がみんなには見えていないんじゃないのかと。
チュンサンの瞳は遠い世界を凝視している。
そんなに大変なことだったの
あの時代はね。
「チュンサンわたしのお誕生会に来てくれる」
「行ってもいいの」
「どうして、だってお友達じゃない、ママがお友達を呼びなさいって」
ーおともだち・・お友達・・だってー
「スファ、スファ・・あのね・・・」
「お帰りなさい、何かいいことがあったのですか」
「スジンがお誕生会に呼んでくれたんだ」
「あら、ほんとですか。だったらプレゼントを買いに行かなくてはね」
「スジンはね、いつも犬の絵を描くんだよ。僕、犬の貯金箱がいいと思うな」
「チュンサンさま11時の招待じゃありませんか。遅れますよ」
「・・・・・・・」
「チュンサンさま・・・」
「スファ、僕、頭が痛いから行かないよ」
「・・・・・・・」
ーママがね、チュンサンを呼んじゃいけないってー
リボンのかかった箱がチュンサンの手からベットの下に落ちた。
陶器の割れる音がした。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 9
「チュンソン、髪を切ってもらえるかしら」
「・・・・・・」
「少しだけよ」
ハイディが苦笑した。
「彼のイメージに合わないのよ、チュンソン!仕事なのよ」
「わかってるよハイディ、少し拗ねてみただけじゃないか」
ハイディはちょっと肩を竦め、軽くチュンソンを睨んでジェニファーに視線を移した。
「ジェニファー、笑ってないで何とか言ったら」
「あらハイディ、彼に言えるのはあなただけよ」
チュンソンはフォークを握っているハイディの手を取り、
「仰せのとおりに」と、軽くキスをした。
「もう・・そうやって誤魔化すんだから・・・」
自らの筆を捨て画商としての地位を確立するため、チュンソンは努力を惜しまなかった。
チェリンから見出されたモデルの才能は、何の苦労もなく手に入れたかのように見えたが、
必要とあらば、身体に負担を懸けることもモデルとしてのプライドがやってのけた。
そこにはハイディの的確なアドバイスとアランの後押しがあった。
普段は長めの黒い髪を軽く束ね、シックな服もラフに着こなしたチュンソン。
そんな彼を見るために画廊を訪れる人さえもいる。
パリコレの時期になると、大勢のデザイナーから声が掛かる。
有名デザイナーのトップモデルとしての活躍はハイディの選択に任せ、
その合間をぬってチュンソンが「これは」と感じてた無名のデザイナーのステージに登場しては、世間を沸かせていた。
「ねえパパってほんとに格好いいのね」
BGMにかき消されそうな声を耳元でささやいた。
「ああ、そうだね。ますますよくなってるな」
「アランおじちゃまもそう思うの、フランもそう思うわ」
「もっとそう思ってる人があそこにいるぞ」
「うん、チェリンおばちゃまね」
ステージのチュンソンを見守るチェリンがそこにいた。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 10
「母さんスファはどこ」
「しばらくお休みを取っていなかったから実家に帰ったわ」
「僕に何も言わず・・・母さんが無理矢理帰したんだろ」
チュンサンの刺すような視線を避けるようにミヒが無言で立ち上がった。
「・・・・母さん、今度はいつまでいるの」
チュンサンの声がミヒの背中に追い被さった。
後ろ手でドアを閉め、ミヒの肩が震えた。
「・・・・チュンサン・・チュンサン・・・・・」
きつく結んだ唇から言葉にならない名前を僅かに漏らし呑み込んだ。
「あなたには感謝しても・・・・・」
「奥様・・どうかそんなことをおっしゃらないでください」
「でも、チュンサンにはどう話したらいいのかしら」
「奥様、チュンサンさまはもう大人ですよ」
ミヒが大きく頭を振った。
チュンサンの心がまた離れていくことは判りきっていた。
「スファ、幸せになるのよ」
「はい、奥様・・・」
「でも、子供が二人もいる人に後妻で行くなんて・・・ごめんなさいねスファ。
わたしのせいね」
「いいえ10年もチュンサンさまといられたんです、楽しかったですよ。
こんなわたしには勿体ない話ですから」
「スファありがとう」
「漠然と思っていた人生の不公平をあの時、確信したんだ」
父チュンサンが言った。
「あの日から花嫁衣装に身を包んだきれいなスファを、母と呼べる僕と同じ年くらいの
子供がなんで僕じゃないんだって」
微かな笑みの先にあの時のスファを見るようにチュンサンは目を細めた。
「・・・きれいだった・・・」
スファがいなくなった後、住み込みのお手伝いの人を頼もうとしたミヒであったが、
「もう、高校生になるのだから」とチュンサンに押し切られ、
チュンサンのいない時間に通いのお手伝いの人に来てもらうことにした。
ほとんど一人で暮らすチュンサンに心を残しながら、ミヒはさらなる世界へ羽ばたき出していた。
チュンサンとミヒ
互いに堅く閉め切ってしまったものを開ける方法もわからないまま、月日は流れていった。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 11
さすがのチュンソンも疲れていた。
パリコレの間、体調管理と時間管理そして、この期間にパリに訪れる人たちとの商談。
最後の打ち上げパーティが終わった時には、ただ泥のように眠りたかった。
「・・・・パパ・・パパ・・・」
小さい手がチュンソンの顔を触っていく。
その指をチュンソンの唇が捕まえてくわえた。
「パッ・・パ、パパ起きてたの」
「フランに起こされたんだよ」
「ごめんなさい、ママにパパを起こしてはダメっていわれてたの」
「じゃあ、ママには内緒だな」
フランソアの体を抱き上げ、自分の胸に座らた。
「フラン、おはよう。今日は幼稚園はお休みかな」
「パパもう、こんにちわだわ、それに今日は行きたくってもお休みなのよ」
静けさを求めてフランソアとブーローニュの森に辿り着く。
この10日間の喧噪を忘れさせるまっすぐのびた松林。
小さな子供用の汽車に乗るフランソアに微笑みながら、
本来の自分の仕事である美術品に懐かしさを感じていた。
思わず独り言を呟いた。
「頭を空っぽにするにはギメ美術館だな」
あの世界に戻るときめきをチュンソンは忘れてはいなかった。
「フラン、ママを迎えに行こう、今日はゆっくり食事ができるぞ」
「ほんとだ」
「何が本当なんだいフラン」
「ミセスパーカーが言ってたの、今日はきっと一緒に食事ができますよって。
ずっとミセスパーカーがキッチンに入ってたから、パパのお部屋に行けたのよ」
「じゃあ今日はごちそうがいっぱいなんだな」
フランソアがクスクス笑った。
「やっぱりね、パパはショーが終わると飢えたライオンになるって」
「ガァオー、食べちゃうぞフラン」
フランソアを抱き上げると高々と放りあげた。
青空にフランソアの笑い声が吸い込まれていった。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 12
「お帰りなさいませ」
「キムさん、今日は遅くまでいたんですね」
「ええ、チュンサンさま・・・これを」
キムの差し出した写真にはミヒが男の人と写っていた。
「これは・・・・」
ミヒの書斎で本の埃を払っていたとき、本の間から落ちてきたものであった。
「申し訳ありません、どの本なのかわからないのです」
写真を凝視するチュンサン
「いいですよ、僕があとで母に返しておきます」
写真を手にどれくらい座っていたのだろうか、気づくと部屋の中は真っ暗になっていた。
焼けこげた白黒写真、頭の中でリフィレインする声
「誰なの?僕の父さんは」
「息子の学校の件もあるので、この家を処分するのは・・・そうね・・・・」
「・・・母さん、すぐにでもいいですよ。 アメリカに行く気持ちになるまで春川の学校に変わります」
「春川のがっこう・・・・」
「ええ、手続きはもう頼んであります。母は忙しいのでと言ったらすぐにやってくれました」
「・・・・チュンサンわかったわ。でもすぐに行くのよアメリカに」
「・・・・・・・」
あの時、あの季節、あの空・・・・あの星
僕を受け入れてくれた・・・・僕の友達
孤独に慣れた僕に手を差し伸べてくれたユジン
決して壊れない贈り物
僕の心と笑い声を入れたカセットテープ
ユジン、君に届くだろうか
ポケットに手を入れ暖かいものに触れた
ー好きな花はー ー白いバラー
ー好きな動物はー ーひとー
ー大晦日に そしたら教えてあげるー
ピンクのミトンを握りしめる
激しい警笛、眩しいライト、白い閃光
驚きの顔と立ちつくすチュンサン
あの日を境に僕は彼女を影の世界に送り込んだ。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 13
「受付にサミエル バーンがお見えです」
その名前を聞いたとたんチュンソンは、オフィスの椅子に深く座り直した。
オズオズしたノックが響き、戸口にサミエルが現れた。
チュンソンはドアから漏れたBGMが耳をかすめたとき
ーやはりカンミヒのショパンが1番好きだなー
ドアが閉められ音が消えた。
チュンソンはすべてのことを頭から追い出し、緊張して青い顔をしているサミエルに目を走らせた。
「ここ数カ月来なかったようだね」
「・・・・」
「どこかにスケッチ旅行にでも行ってたのか」
「・・・・」
「サミエル、怒ってるんじゃないんだ。君が月に1度ここに来るのも来ないのも自由なんだ。ただ・・・」
チュンソンの話を遮るかのようにサミエルは口を開いた。
「あの時はあなたに認めてもらいたい一心でした。その後何カ月か、生活に必要なお金を
ここを訪れるだけで保証されていることに心の安定を得ました。
でもそれから何を書いてもあなたの期待に応えることができないんじゃないかと
不安になったのです」
「・・・・・」
言葉を切ってチュンソンをみつめるサミエルに、無言で続けるように催促した。
サミエルは押しつぶされそうな不安から故郷のオーストラリア逃げた。
ただ数週間広い大地を眺めているうち、パリのごみごみしさが懐かしくなり、
絵筆を捨てる決心も付かない。
友達に誘われてNPOに参加してある国の学校を作る作業を手伝った。
そこでの美しいまでの景色に画きたい衝動を抑えることのできない自分に気づいた。
「自分の技法が確立できたという事かな」
大きく頷くサミエル
「ここに持ってきてないようだけど、僕に見せてもらえるのかな」
「追い返されるかと思って・・・受付に置いてあります」
「じゃぁ・・先に受付で今まで受け取っていない小切手を貰ってから、絵を運び込んでくれ」
「・・・受け取れません」
「君が来なくとも毎月小切手は受付に預けていたんだ、君が受け取らないと僕のスタッフが困るんだ」
「・・・・感謝してます」
サミエルにとって永遠と思われるほどの静寂だった。
「・・・・サミエル・・」チュンソンがかすれた声を上げた。
「サミエル、君に毎月の小切手を切るのはさっきのでおしまいだ」
「・・・・・」サミエルの顔がまた青ざめた。
チュンソンは軽く咳払いをすると、あの人を包みこむ笑顔を見せ、
「サミエル バーン画伯、君の絵を一手に引き受けさせてもらえないか。すぐに契約書を作るよ」
画廊とオフィスのドアが開き、そして閉められた。
ーそうだよな、子守歌に聞いてたもんなー
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 14
「彼の生命力に賭けるだけです。このまま眠り続けるのか、意識を取り戻すのか、
呼びかけてあげてください」
事故から4週間、ほとんど助からないと宣告されたが、奇跡的にチュンサンは自発呼吸ができるまで回復していた。
事故の翌日にミヒは学校に状況を説明のため電話を入れていた。
その電話口でミヒは
「チュンサンは亡くなりました」
なぜそんなことを言ってしまったのか、今考えても自分を理解できないミヒであったが、
ただ一つわかっていたのは、これでチュンサンが自分だけのものになるということだった。
「先生、どうしてもスケジュールを動かすことはできません」
「スファ、私ですカン ミヒです。お願いがあるの・・・・」
青ざめた顔で、両手を関節が白くなるほど握りしめベットを見下ろしていた。
「何て事・・・・こんなお姿になってるなんて・・
どうしてもっと早く教えてくださらなかったのですか」
「スファあなたに迷惑を掛けるかと思って・・・」
「教えていただけなかったことが寂しいです、奥様」
翌日から病院へ詰めるスファがいた。
「スファ、家のことはいいの」
「はい奥様、主人はわかってくれましたし、家のことは今まで通りやれますから」
「・・・スファ、ありがとう・・・」
「チュンサンさまスファの声が聞こえますか。お寝坊はいけませんよ」
「坊ちゃま、身体を拭きますよ・・・・また、この指でピアノを聞かせてくださいね」
「チュンサンさま、春になりますよ。お花がいっぱい咲きますよ、どこへ参りましょうか」
「チュンサンさま、チュンサンさま・・・・チュンサン坊ちゃま・・・・」
幼いあの頃お昼寝から覚めたときのように、足が胸の方に引き上げられ
微かに「う〜ん」という声が出た。
「・・・・チュンサンさま・・わかりますか・・・・」
「・・・・・・」
幼子の瞳のように何の翳りもない眼差しがスファに向けられた。
「・・・・・・だ・・・れ?」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 15
サミエル バーンのデビュー展が開催された。
緻密な計算に展示された絵は新鋭気鋭の芸術家にスポットライトを大きく当てた。
絵はドウレローを連想させたが、サミエルの大陸的な大らかさがドウレローとは違う
ものを描き出していた。
「飲み物はいかがですか」
「あら、チュンソン、オーナー自らギャルソンなの」
「デザイナーには特別ですよ、はいチェリンおばさん」
シャンパングラスを差し出した。
「チュンソンひとこと余計よ」軽く睨みつけると、チュンソンに微笑んだ。
「何か気に入ったものはございましたか」
チェリンのウエストに手を置いてエスコートしながらチュンソンはサミエルを紹介した。
「サミエル、オ チェリン先生です」
「あのオートクチュールの・・・・・感激です・・・」
チュンソンはさりげなくチェリンのそばを離れると、招待客の間を華麗に動き回っていた。
「チュンソン、お願いがあるんだが・・・」
アランがチュンソンの耳元に何ごとかささやいた。
チュンソンの顔がこんなに楽しいことはないという笑顔を浮かべた。
そのそばにいた人までが思わず微笑みたくなるような笑顔だった。
「・・・・任せて、アラン」チュンソンはウインクをすると素早くどこかへ消えた。
VIP招待客が帰る頃、ほとんどの作品に売約済みのステッカーが貼られていた。
チェリンが足を止め落胆のため息をついた。
あの時すぐに交渉しなかったことが悔やまれた。
サミエルのデビューは成功裏に終わった。
数日後、チェリンからせき込むように電話が来た。
「チュンソン、どうしてわかったの・・・なぜ・・・」
「僕じゃありませんよチェリン。アランからのプレゼントですよ」
「・・・まぁ・・・アラン・・あなた・・・」
電話口を苦笑しながら見つめるチュンソン。
その電話の向こうにはアランがチェリンの肩に手を回し、包みからほどかれた絵に見入っていた。
「アランありがとう」
「気に入ったかな」
「ええ、ほしかったの」
そこには静かな海に太陽が沈もうとしている赤を基調とした風景画があった。
「そう、私の人生のよう・・・・」チェリンが呟いた。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 16
「今のチュンサンになら、父親も楽しい人生も与えることができるの」
「でも、チュンサンさまはチュンサンさまなのですよ、誰も決めることはできません
奥様、考え直してくださいませ。チュンサンさまの人生なんですよ」
「スファあなたならわかるはずよ、チュンサンの悲しみも辛さも・・・ねぇスファ」
「・・・・奥様・・・・」
目覚めたチュンサンには全く記憶はなかった。
ミヒは命が助かったことを神に感謝を捧げた、しかし日が経つにつれ幼子に戻ったチュンサンが不憫になっていた。
ー全く勝手なことはわかるわ、あの時は命が助かったらと、そして今は前のような賢いチュンサンを望んでいるー
何の疑問も持たず安心しきってミヒに寄り添うチュンサンの髪をなでながら、ミヒは自分が恐ろしいことを考えてことに寒気がした。
チュンサンの穏やかな温かい瞳に見つめられると、忘れていたあの頃の微笑みがミヒに戻ってきた。
「奥様、そんなふうにチュンサンさまをご覧になるなんてスファは初めて見ました」
スファは大きなため息をつくと
「お考えのとおりなさってください、こんなに幸せそうなチュンサンさまを見ることが・・・」
「スファ許してね、あの子の記憶からあなたは消えてしまったのよ」
スファは大きく頭を振り
「かまいません、チュンサンさまが幸せになってくれさえすれば・・・
スファは決してチュンサンさまの前にはこれから先・・・・現れません」
決断したミヒの行動は速かった。
そしてそのミヒの人生に寄り添うことを約束したイ氏は、何の躊躇いも見せず
ミヒが望むことを的確に処理していった。
僅かな日数で渡米の準備は整った。
数日後、金浦空港にけがをした我が子をいたわる父と慈しむ母がいた。
見送る者もなく3人は飛び立った。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 17
「スファやっと落ち着きました。ミニョンもいえ、あなたにだけはチュンサンと呼ばせて・・」
「お元気になられたのならそれでよろしゅうございます」
春川の家はミヒがカン家から譲られた唯一の財産だった。
そこにはチュンサンが転校という思いがけない行動をした時、ソウルの自宅を手放し、
アメリカへの移住のため必要最低限の家財を運び込んでいた。
ミヒはスファに子供時代のアルバムから一人で写ってるもの、
背景のわからないものを抜き取ること。
そして1冊のミニョンのアルバムを作ること
決して戻ることのないチュンサンとしてのすべての物を処分すること
などを依頼していた。
ソウルと春川を何往復をしながら、スファはたったひとりでチュンサンとの思い出を整理した。
それはスファには身を切られる作業であった。
チュンサンの手にあったものすべてが、スファには愛おしかった。
寂しすぎる18年を思い、スファは心の底から涙を流した。
ーチュンサンさまはもう一生ここには来ることはない・・・なら・・・ー
廃棄処分しようとした箱をひとつひとつ元のあるべき所に置き直した。
あの事故の時、チュンサンが着ていたコート、そしてチュンサンの思い出であろう、紙切れ1枚までも。
春川の家に鍵を掛けスファはチュンサンに別れを告げた。
「奥様、すべてのものを処分いたしました」
春川の家は時の流れから切り離された。
それからの10年、僕はミニョンだった。
ミニョンであることに疑いなんて持たなかった。そうだろチュンソン、自分は生まれる前は何だったろうなんて真剣には考えはしないはずだ。
それと同じで、僕はアメリカで生まれアメリカで育ったイ ミニョン。それ以外の何者でもないはず・・だった。
ん?そうだよチュンソン、僕はカン ジュンサンであると同時にイ ミニョンでもあるんだ。
その人が持っている人格は、簡単に変えることは出来ない。しかし僕はユジンでさえ、同じ顔をした別の人物と言い切れるだけ違っていたんだ。
明るく、よく笑うミニョン。心の底から笑うことも人との接し方もわからなかったチュンサン。
もしチュンサンが普通の家庭で両親揃って育っていたら、ミニョンのようなチュンサンになっていたんだろうか。
人にはもって生まれたサガというものがあると思う、チュンサンのようなミニョン、またはその逆であっても、根底に流れているものは同じはずさ。
僕はお前を見ていてそう思うようになったんだ。
なぜ?
また話が元に戻ったねチュンソン、もう少し僕の話を続けさせてくれ。
そう、僕はイ ミニョンとしてソウルに来たんだ。
帰ってきたわけでも戻って来たわけでもない、僕はソウルに来たんだ。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 18
「私です。今、到着しました。ええ。チュンサンは元気にやってますよね」
ーソウルに出向ですって・・・・。あなたどうにかならないんですかー
ーそんな長くはないよ・・・・心配はいらない、ミニョンならやれるさー
ーそんなことではありませんー
ーわかってるミヒ、でも渡らなくてはならない橋なんだよ。これからのミニョンにとってー
ミヒが世界的ピアニストとして輝いているのは、プロとしての妥協を許さないことにあった。同じことがイ氏にもいえた。
プロとしてそして同じ建築家としてイ氏はミニョンを見つめてきた。
ミニョンが手がけた、ウィスラー・リゾートやカンヌのミュージアムそして数々の建築賞
しかし、企業のトップとしてグループを管理運営していくにはイ氏の原点である韓国を知らなくてはならなかった。
アメリカ人として生きてきたミニョンが、韓国人としての仕事の違い感情の表し方を身をもって知る必要があった。
「どうして?母さんの故郷じゃないか・・・・」
ギグリとした
ー母さんの母校・・・・・父さんとの思いでのつまった母さんの母校・・・・ー
ミヒは呻き声を左手で覆い隠した。
「・・・・ね、母さん・・どうしたの聞いてるの」
「ええ、ミニョンそうね」
「僕が仕事を持ってから一緒に暮らしてないんだよ、それに母さんだって演奏旅行で留守がちだし、ここにいようとソウルにいようと同じことじゃないか」
「そうだったわね、ええ、ただ心配で・・・」
ミニョンがミヒの身体にそっと腕を回し抱きしめた。
「・・・ミニョン・・」
「母さんなんの心配もしないで、僕は大丈夫だから。それにソウルにはパリであったチェリンもいるんだ」
「そうだったわね」
「先輩どうして僕の好みがわかったんですか」マルシアンに初出勤をし、自分のオフィスの椅子に腰掛けミニョンが聞いた。
「そりゃわかるさ、ミニョンのことなら」キム次長は何がと思いつつミニョンにウインクをした。
ミニョンは苦笑しながら
「いいえ、セッテングのことじゃなくて細かい物の配置ですよ、たとえばこの机の中の筆記用具の置き方やメモ用紙の配置ですよ」
次長はミニョンが指さす方を覗き込んだが、首を横に振った。
「どこがどう違うんですか、俺にはさっぱり。でも理事の部屋はいつもと違う人が来て片付けてたな」
「もういいですよ、先輩。再会を祝して飲みに連れて行ってください」
「ああ俺も今それを言おうと思っていたんだ、さあ、初めての韓国へようこそ理事」
「おかしいな」
ひとつだけ欠けているジクソーパズルを眺めながら、どこでなくしたんだろうと考えていた。
音もなくドアが開き掃除の人が入ってきた。
「申し訳ございません、まだおいでになっていないとばかり・・・」
「いえ、今日は少し早く来たんです。ところで掃除のとき、ここの欠片を拾いませんでしたか」
彼女は食い入るようにミニョンを見つめていたがあわてて
「・・・いえ、気がつきませんでした」
「そうですか・・・僕の顔に何かついてますか」
顔を赤らめ目を逸らした。
「僕の部屋だけを担当してくださってるんですよね、お名前は」
「・・・・チョです」
「チョさん、イ ミニョンです。これからもよろしく」
ミニョンはチョに右手を差し出した。
チョの手は震えていた。
「はい奥様、チュンサンさまは代表理事として頑張っていらっしゃいます」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 19
ー チョさん、しばらくの間スキー場に行くことが多くなると思います。いつも使い勝手の良いようにしていただいてありがとうございます。イ ミニョン ー
いつものように机に手を掛けたスファの目に、チュンサンの懐かしい大人になった文字が置かれてあった。
宝物を見つけたかのようにスファはメモをそっとポケットに入れた。
パズルにはいつの間にか、なくなったはずの一欠片がはめ込まれていた。
そのパズルの前に佇みスファは思い出していた。
「ねえスファ、見て見て」
「あらもう出来てしまったんですか、今度は難しいと思ったんですけれどね」
「大丈夫だよスファ、また壊してはめ直すと何度でも出来るんだから」
パズルを愛おしそうに撫でた。
「チュンサンさま、スキー場は寒いですよ。風邪を引かないでくださいね」
スファの声が主のいない部屋に吸い込まれた。
ある朝、スファの携帯が鳴った。
チュンサンがソウルに来ることがわかったとき、ミヒが10年ぶりにスファを訪ね、連絡用にと渡してあった。
この携帯にかけてくるのはミヒだけである。
「・・・・スファ・・」
「奥様お加減はいかがですか。リサイタルの後に倒れられたと報道されましたが」
「もう大丈夫よ、それよりスファ、チュンサンがカン ジュンサンを知らないかって・・・」
「なんてことを・・・」
「自分とそっくりで自分と同じくおぼれたカン ジュンサンを・・・」
あの日、別荘を購入して初めて滞在したときのことだった。
まだ、今のような建物ではなく古い民家のようなものだった。
そこで海外公演の疲れをいやそうと、ミヒはスファを連れ、休みに入ったチュンサンと
訪れていた。
大量の荷物を運び込んでいた隙にチュンサンがひとりで水辺に行き、おぼれていたのを、救出されたのだった。
水から引き上げられたチュンサンはもう息をしていないのではないか、と思うほど白い顔をしていた。
ほとんど半狂乱に近いミヒをなだめながら、スファもガタガタ震えていた。
医師の懸命な人工呼吸で水を口から吐きだし、息を吹き返したとき、母親としてのミヒをスファは目の当たりにした。
あの目覚めたとき、チュンサンがはじめに口にした言葉は
「・・・・ママ・・」
スファがミヒのため、チュンサンに尽くそうと心を固めた日であった。
「記憶が戻られたのですか」
「まさか・・・!そんなことはないはずよ」
「奥様・・」
「いろいろあって疲れたわ、スファ・・・・」
ーチュンサンさま、何を考え何を思っていらっしゃるのですかー
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 20
「チョさん、理事が来ませんでしたか」
朝早く、飛び込んできたキム次長がせき込んで尋ねた。
「いえ、お見かけしませんが。どうかなさったのですか」
ミニョンの机に寄りかかって机の上に置かれたプレートを弄びながらキム次長は独り言のように言った
「記憶がないって?僕が過去を覚えていないって?って言ったきりどこかへ行ってしまったんですよ」
「・・・・記憶がない・・」
チョがいたことに気が付き
「いや、チョさん、理事の冗談ですよ、ユジンさんとのことがあってからどこかおかしいんですよ。恋の病かな」
キム次長が話を笑い飛ばそうとしたが、チョの顔がさらに険しくなった。
「ユジンさん?恋の病?次長さん、理事さまに何があったんですか」
「チョさんどうしたんですか、そんなに驚いて。理事のことをご存じなのですか」
「いいえとんでもありません。一度ここでお会いしたのです。優しくしていただいたのでつい」
「そう理事の欠点は女性に優しすぎることですよ」
そういうとキム次長は片手を上げて出ていった。
ー チュンサンさまどこにいらっしゃるのですか ー
自分が誰なのかわからない不安、いやそれ以上の恐ろしさ
チュンソン、誰の言葉を信じていいのか、誰も信じられない想いがわかるかい。
ましてやアン医師の決定的な言葉
僕は28歳のイ ミニョンでありながら18歳のカン ジュンサンと向き合わなければならなくなった。
しかし思い出すものなど何もない。
ただ自分が以前カン ジュンサンであったこと。
ユジンがあれほど恋焦がれていた人、それが自分であったなんて。
愚かしいことにどんなにユジンを苦しめたであろうと、頭の中でわかっていても
心のどこかで僕があのカン ジュンサンなんだ、という歓びがあったことは隠せはしなかった。
それが今まで以上に誰かを苦しめることがわかっていてもね。
あのまぶしいほどの冬の朝を僕は忘れはしない。
カン ジュンサンであることを諦め、イ ミニョンとしてアメリカに発とうとした。
そうユジンを置いて・・・・ひどいだろ・・
あの時カン ジュンサンでなくてもよかったはずなんだ、なぜなら僕はイ ミニョンとしてポラリスのチョン ユジンを愛していたから。
でも、それじゃあの時はダメだったんだ。
道路を横切るユジン
冬の日差しに僕は目を細めた
突然のクラクション
迫り来るトラック
僕はユジンを突き飛ばしたとき18歳のあの大晦日の夜を彷徨った。
「・・・・ユジン」
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 21
「ただいまジェニファー、フラン誰と電話してるんだい」
「韓国のお父様とお母様よ。新年のご挨拶なのよ」
「新年・・・旧正月か」
「忘れてたの?チュンソン」
電話に夢中になっているフランソアの傍らに座り、柔らかい頬にキスをした。
「パパ! おばあちゃまパパが帰ってきたの・・・・はいパパ・・」
「もういいのかフラン・・新年おめでとう お母さん・・ええ、元気ですよ
そちらは寒いでしょ・・・・・えぇ大丈夫ですよ。お父さんも・・・・・
もうすぐお父さんの誕生日ですね。行けないかも知れません・・無理はしませんから・
お母さんは相変わらず心配性ですね・・えぇ・・ありがとうございます。
ジェニファーとは・・・もう話したんですね。はい、お休みなさい・・・・・・・」
チュンソンが電話を置き振り向くと、背伸びをしたジェニファーがチュンソンの顔を包み込みくちづけた。「お母様に会いたくなった?私は会いたいわ」こぼれ落ちそうな言葉を呑み込みチュンソンはジェニファーを抱きしめた。
「10年間、誕生日も知らず生きてきた・・・・・」
まさかそんなことはないはずだ。
パスポートに誕生日は明記されていたし、その時その時付き合っていたガールフレンドからはプレゼントを貰っていた。もちろんチェリンからも・・・・・。
今考えてもわからない、僕はイ ミニョンからカン ジュンサンに戻ったとき、
ものの考え方、捉え方すべてのものがカン ジュンサンになっていた。
何がそうさせたのだったのか。
それも今となっては説明が付かない。
目覚めたときユジンを見つけた。僕はうれしかった、ただただうれしかった。
それだけでは僕はカン ジュンサンになれなかった。僕は家を必要とし、過去を探しそして父を求めた。
ユジンのための本当のカン ジュンサンになってあげたい・・・・
いや違う・・・よみがえぬ記憶の奥底の不安が僕を掻きたてていた。
あのソウルに来たときのイ ミニョンだったなら、決して犯さないだろ愚かな間違いを積み重ね、僕は見えているはずの美しい景色をも見失っていた。
何に向かって歩いていたんだろうか。深い深い絶望の淵に佇み脆い路肩に足を掛けた。
忘れ去られようとしたイ ミニョンの嫉妬だったのだろうか。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 22
「ええ、愛しています」
スファの目はミヒを捉えたまま逸らそうとしなかった。
「奥様がチュンサンさまを愛していらっしゃるように私も愛してました、いえ今も愛しています」
だから許せなかった。
ミヒが生きていくためにミヒ自身が支えとするために、自分に吐きとおしてきたもの。
チュンサンの為にさえ、捨てることが出来なかったミヒ。
ミヒが守りたかったものはチュンサンではなかったのか、チュンサンでなければならないはずなのに。
どちらの母も許してくれなかった。
だからといって、気持ちの奥底からこみ上げてくる激情に流されるわけにはいかなかった。
手を放したくない。彼女をこの胸に抱きたい。
1枚のドアが岩石のように僕たちを隔てていた。
「僕の父さんは誰?」
チュンサンだったのよ、スファ。紛れもなくチュンサン。
私はどう言ったらよかったの・・・・
私の中に命が育まれたその瞬間からヒョンスの子どもだったのよ。
嘘じゃなかった。でも真実でもなかった。
あの子はヒョンスの子ども・・・・・そう信じたかった。
取り返しのつかないものがジリジリと燃やされていくようなもどかしさ。
スファの中でチュンサンとの思い出までもが焦げていた。
ミヒの罪がチュンサンを身ごもった時まで遡るとしたら、
スファの罪はミヒの恐ろしい計画を受け入れたあの時にあった。
幼い時から寂しさと孤独を知っていたチュンサンその彼が愛した人
チュンサンの閉ざされた笑顔を引き出してくれた人
明るくよく笑うイミニョンを愛してくれた人
スファは顔も知らないユジンの声を聞いた。
「愛してます」
僕は祈った
「神よ、お許し下さい」
あの言葉を忘れはしない、僕は神を欺こうとしたんだ。
でも神はすべてを見通していた。
サンヒョクは愚かな僕への神の使いだった。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 23
「・・・・一緒に行くよ」
「チュンソン・・・いいの・・・」
春の日差しを浴び、3人はゆったりと美しく刈り込まれた芝生を歩く。
緑を渡る風が擽るように流れていく。
チュンソンの髪は風のいたずらにまかせ、ジェニファーの長いスカートの裾は風を含んで軽く煽られる。
フランソアは風のミューズと戯れている。
ジェニファーは黄色だけで作られた小さな花束を握りしめいていた。
花を持つ手の関節がそこに近づくにつれ白くなっていく。
チュンソンの手がジェニファー手を繋いだ。
「そんなに握りしめたらお花が萎れちゃうよ」
チュンソンの言葉に肩の力を抜いたジェニファーがそっとささやいた。
「ありがとうチュンソン」
ジェニファーの手から花束がそっと冷たい石の上に置かれた。
「ねえパパ、誰のお墓なの。なんて書いてあるの」
「読んであげようねフラン・・・・・・・・・
私たちの愛する息子フランソア
あなたの25年が短かったと誰が言えよう
人に愛され人を愛し、神に愛された
いつか神の御前で会える日まで・・・・・・・・」
「・・・・・・あのねジャンが言ったの、フランの名前は男の子の名前だぞって。そうなの」
「フランは自分の名前が嫌いかな」
「そんなことはないわ、フランソア・・好きよ」
「そうだよパパも好きだよ、そしてママも」
「ママ、黄色いお花が好きな人なの」
「ええ、春一番に咲く黄色が好きだったのよ」
「・・・フランソア・・フランも黄色い花がすきよ」
ジェニファーがフランの体を引き寄せた。
そのジェニファーとフランをチュンソンが両手で抱きしめた。
一陣の風が3人を包み込むように舞い上がった。
チュンソンとジェニファーはあの日のことを思い出していた。
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 24
幼いときからいつも周りには友達がいた。
ひとりで過ごすことなんて考えられなかった。
パリに来てからもすぐにたくさんの友達ができた。
チュンサンの「友達の作り方を知らなかった」なんて、チュンソンにとっては驚き以外の何物でもなかった。
彼女を初めて見たとき、チュンソンの何かが音を立てた。
心の奥底に仕舞ってあった、箱が蓋を開けたような気がした。
「・・・ジェニファー?・・撮影が終わったら食事をしないか・・」
驚いた顔が頬を桃色に染めた。大きく頭を振ると「約束があるの」と呟いた。
落胆の色をチュンソンは隠せなかった。
彼女はアランの雑誌の編集者として、撮影に立ち会っていた。
初めて見たときこんなに華奢な女性が現場を取り仕切れるのかと訝った。
しかし彼女のたおやかな対応と人を逸らせない見事な手腕には驚きでさえあった。
「どうだいチュンソン、彼女は」
「アラン、こんなに素敵な人をどこに匿っていたんだ」
「珍しいなデートの対象じゃなく仕事の対象として彼女を見てたんだな」
「ひどいな、女性と見ると見境がないように聞こえるじゃないか」
「違うのか・・まあもっとも女性達が放っておかないがな」
「・・・・」
「でも、彼女はダメだな」
「なぜ・・・・・・・・」
「いつも迎えに来ているんだ、聞いたことはないがきっと恋人だろ」
「アランのきっとはあてにならないからな、あの時だって僕とチェリンのこと誤解してじゃないか」
「・・・・まあな」苦笑いをしながらアランはジェニファーに近づくと声を掛けて現場から帰っていった。
チュンソンの横をジェニファーが走り抜けた、その先に男の後ろ姿が見えた。
「・・・・・」ジェニファーの声に男が振り向いた。
「フランソア」「フランソア」ジェニファーとチュンソンの声が共鳴した。
ジェニファーの驚きの顔と「チュンソン」フランソアの驚きの声が重なった
********
「To the future 」 − 回転木馬 − 25